2020年7月26日日曜日

2020年07月26日 第4主日礼拝 悔い改めよ

招詞
私のたましいよおまえの全きいこいに戻れ。主がおまえに良くしてくださったのだから。まことにあなたは私のたましいを死から私の目を涙から私の足をつまずきから救い出してくださいました。私は生ける者の地で主の御前を歩みます。               詩篇116篇7~9節

聖書箇所
エゼキエル書14章1節~23節

説教
悔い改めよ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/346 聖餐式の意味

 イエスは彼らに言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに、いのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物なのです。
                             ヨハネの福音書6章53~55節

2020年7月19日日曜日

2020年07月19日 第3主日礼拝 偽預言者たちの過ち

招詞
 私は主を愛している。主は私の声私の願いを聞いてくださる。主が私に耳を傾けてくださるので私は生きているかぎり主を呼び求める。                詩篇116篇1~2節

聖書箇所
エゼキエル書13章1節~23節

説教
偽預言者たちの過ち 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/345 女預言者デボラ
 主をほめたたえよ。聞け、王たち。耳を傾けよ、君主たち。私、この私は主に向かって歌う。イスラエルの神、主にほめ歌を歌う。キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キション川が。わがたましいよ、力強く進め。
                                  士師記5章3、21節

 デボラは、旧約聖書に登場する数少ない女預言者の一人です。デボラによって北のナフタリからバラクが呼び寄せ、シセラの率いる戦車九百両の戦車と大軍を戦うことになります。デボラはバラクに「わたしは、彼をあなたの手に渡す」という託宣を告げました。敵はきわめて殺傷力のある戦車部隊を持っていました。イスラエルはそのような武器はありません。もし平地でまともに戦うならば敗北することは目に見えます。結果はイスラエルの完全な勝利でした。どのようにして勝利が与えられたのか、それが上記の歌の中に記されています。なぜ戦車九百両という進歩的な装備を誇るカナンの将軍シセラが完敗したのか。その理由は、雨が降ることで「キション川」が氾濫し、地はぬかるみとなって戦車が使えなくなったからでした。デボラの預言は、「ひとりの女の手にシセラを売り渡される」でした。そして事実、逃げ延びたシセラを打ちとったのはヤエルという女性でした。                        (銘形「士師記の瞑想」より一部引用)

2020年7月11日土曜日

2020年07月12日 第2主日礼拝 神の預言に向き合う人

招詞
私たちにではなく主よ私たちにではなくただあなたの御名に栄光を帰してください。あなたの恵みとまことのゆえに。私たちの神は天におられその望むところをことごとく行われる。
                                  詩篇115篇1、3節

聖書箇所
エゼキエル書12章1節~28節

説教
神の預言に向き合う人 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/344 アモス(荷を負う者) 

テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。                                  アモス書1章1節

 北イスラエル王国の王ヤロブアム二世の時代、経済的には繁栄していました、しかし、預言者アモスは、富裕階級にある者たちが自らの利益を追求して贅沢な暮らしを享受し、安易な生活を送りながら、貧困階級にある者たちを顧みないことを非難しました。非難するだけでなく、その刑罰としての災いが迫っているという神のことばを語ったのです。彼は、牧者という当時の最下級クラス出身でどの預言者グループにも属さず、孤高の預言者と言われます。人間的には「孤立無縁の預言者」です。しかし、神様は、他の預言者集団を差し置いて彼を用いられました。見た目の反映の裏にある霊的な腐敗を見、それを糾弾する勇気ある預言者の姿は、キリスト者が1%以下の日本の社会でクリスチャンとして生きる者に勇気と共感を与えますね。
                         (銘形「アモス書の瞑想」より一部引用)

2020年7月5日日曜日

2020年07月05日 第1主日礼拝 石の心と肉の心

招詞
主の御名がほめられるように。日の昇るところから沈むところまで、主の御名がほめたたえられるように。主はすべての国々の上に高くおられ、その栄光は天の上にある。
                                詩篇113篇2b~4a節

聖書箇所
エゼキエル書11章1~25節

説教
石の心と肉の心 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/343 神の霊が私を引き上げて

 霊は私を引き上げて、幻のうちに、私をカルデアにいる捕囚の民のところへ、神の霊によって連れて行った。                          エゼキエル書11章24節

  この定型句が、エゼキエル書には6回使われています。神様が、エゼキエルの預言を聴く人たちに重要なことを見せるために、「主の霊が強制的にエゼキエルに働きかけた」ことを意味します。3章12, 14節、8章3節、11章1, 24節、43章5節などです。
表現は少し異なりますが、37章1節の「主の霊によって、私は連れ出され」というフレーズも「霊が私を引き上げる」と同義と見なすことが出来ます。37章で見た「枯れた骨」の幻はエゼキエル書においてとても重要な幻です。いずれにしても、「主の霊によって」エゼキエルは引き上げられ、あるいは連れ出されて見るべきものを見せられているのです。
エゼキエルの預言のことばを2500年後に読んでいる私たちも、このような定型の言い回しがきたら、そこは重要な事柄が詰まっている箇所と見て、気をつけて読みましょう。渦中にあったバビロンの長老たちの緊張を共有できるようで興味が増してきますね。
                          (銘形「エゼキエル書の瞑想」から引用)