2018年10月28日日曜日

2018年10月28日 第4主日礼拝 羊飼いが与える慰め

招詞
 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。                           ヨハネの福音書10章14節

聖書箇所
詩篇23編

説教
羊飼いが与える慰め 田口孝子師
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言(こと)ローグ/258 「むちと杖」
 
 「たとえ、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたがともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。」       詩篇23篇4節

  ここで、「むち」あたるヘブル語は「セーヴェト」で、じつは「むち、杖、しもと(細い枝)、棒、こん棒、さお」のどれにも訳すことができます。英語では多くの訳がrod(枝、棒)と訳していますし、日本語でも「しもと、棒」と訳しているものもあります。また、「杖」にあたるヘブル語は「ミシュエネット」で、こちらはほとんど「杖(staff)」と訳されていて、羊飼いが羊を導いたり、小羊を母親に寄せたり、羊飼い自身が寄りかかる杖です。
さて、羊飼いは何をするために、「むち」と訳されている、このセーヴェトなるものをもっているのでしょうか。フィリップ・ケラー著「羊飼いが見た詩編23篇」(1979年初版、2017年再版)がとても興味深いことを書いています。ケラーさんが育った西アフリカで見た羊飼いたちは、こん棒をもっていて、羊が毒草のあるような行ってはいけない方向に行き始めたら、このこん棒をそのちょうど先に投げて、行くのを防ぐのだそうです。また、野獣が襲ってきたら、これを投げて羊の群れを守るのです。パレスチナでも似ているそうです。これを読んだ瞬間、私は、羊飼いはこれを羊に対して使うのではなく、羊を守るために使うのだとわかりました。アフリカで、羊飼いたちの棒投げコンテストがあるのだそうで、彼らは非常に正確に遠くのある一点をめがけて投げ競うそうです。その正確さはよい羊飼いの高い技術です。羊飼いが羊の群れを飼っている草原で、ケラーさんはこん棒が空を切る音を何回も聞いたとありました。そのほか、羊飼いは棒で羊の数を数えたり、長い羊毛をかき分けて病気や傷を探すのに使うのです。主なる神は、私たち群れの一人一人から一時も目を離さず、見守っていてくださり、危険な方向に向かった時、また危険が迫ってくる時、ご自身のみ力をもって、みことばをもって、ご聖霊によって守ってくださる最高の羊飼いです。

2018年10月21日日曜日

2018年10月21日 宗教改革記念礼拝 新しい歌を主に歌おう

招詞
私は、【主】の恵みを、とこしえに歌います。あなたの真実を代々限りなく私の口で知らせます。私はこう言います。「御恵みは、とこしえに建てられ、あなたは、その真実を天に堅く立てられる」と。                               詩篇89篇1~2節

聖書箇所
詩篇33篇1~22節

説教
新しい歌を主に歌おう 田口勇新牧師
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2018年10月14日日曜日

2018年10月14日 第2主日礼拝 新しい人と友情

招詞
 主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめましょう。                    詩篇86篇11~12節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章5~9節

説教
新しい人と友情 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/257  宗教改革の精神の具体化① ドイツコラール(ドイツ語会衆讃美歌)

  主は、私の口に、新しい歌、われらの神への賛美を授けられた。     詩篇40篇3節

 今年は、マルチン・ルターの宗教改革から501年目です。当時の新生ルーテル教会では、カトリック教会時代と比べ、音楽と説教が変わりました。ルターは宗教改革の精神を具体化するため教会音楽の庶民化をはかり、全信徒参加型礼拝を可能にする会衆賛美(コラール)の基礎をつくりました。つまり、それ以前のカトリック教会時代には、賛美歌は訓練された聖歌隊がドイツ人の母語であるドイツ語ではなく、ローマ教会の公用語であるラテン語だけで賛美されていました。
 さて、ルターがコラール(全会衆の賛美歌)を作る上で重きをおいたのは、わかりやすさでした。ドイツ語聖書への翻訳のときと同じく、歌詞が誰にもわかるドイツ語であったことと、メロディーが親しみやすいことでした。こうして、1523~24年の両年にかけて大小4種類の重要なドイツ・コラール集(会衆賛美歌集)が出版されました。この歌集では重要な二つの先例を作りましたが一つは異なった歌詞(テキスト)に、同じメロディーを当てる習慣を作ったことです。これが、私たちの使っている賛美歌や聖歌の形式です。美しい賛美歌を沢山歌えることは感謝ですね。神様が、ルターを用いて、先見の目を働かせてくださったことを感謝し、新しい歌(信仰の歌)を歌い続けましょう。
                     (銘形「マルチン・ルターとコラール」から引用)

2018年10月7日日曜日

2018年10月07日 第1主日礼拝 立場に従って 立場にかかわらず

招詞
【主】は恵みと栄光を授け、正しく歩く者たちに、良いものを拒まれません。万軍の【主】よ。なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼するその人は。       詩篇84篇11b~12節

聖書箇所
レビ記4章3節、13節、22節
   5章1節、7節、11節

説教
立場に従って 立場にかかわらず 老松望KGK主事
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言(こと)ローグ/256  信仰者の嘆き 

  母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。              詩篇22篇10b~11節

 詩篇には、苦悩する心の叫びや怒り、悲嘆や失望が表わされています。決してきれいごとが綴られているわけではありません。人間の醜さもそのまま綴られているのです。だからこそ、詩篇がいつも身近に感じられるのかもしれません。
 現代は心の病、特に、「うつ」になる人が増えています。「うつ」は決してはずかしい病ではありません。これは人間であるゆえの病です。たとえば、人との結びつきが、なんらかの理由によって絶たれてしまうなら、心は不安と孤独と恐れでいっぱいになります。人間は関係性の中で生きる存在であるゆえに、その関係性に傷つくと心が病むのです。生きていれば、必ず、心に傷を受けます。それを避けて通ることはできません。心が病めば、それは身体にも表われます。
 詩篇の世界にはそうした現実に悩む者たちの叫びがありのままに記されています。しかし、その苦しみを言葉に出すことによって、カタルシス、つまり、心のいやしがなされるのです。この癒しには時間がかかりますが、22篇の後半には、その過程も歌われています。22篇を読み返してみてください。                  (銘形「詩編瞑想の手引き」から一部引用)