2024年3月31日日曜日

2024年03月31日 第5主日礼拝 イースター・召天者記念礼拝 イエスは復活された

招詞
 わたしイエスは、あらゆるものの初めてであり、また終わりである。キリストの十字架の血によって清められ、永遠の命が与えられ、神の都に入ることができる者は、幸いである。(現代訳)
                            ヨハネの黙示録22章13~14節

聖書箇所
ルカの福音書24章1節~12

説教
イエスは復活された 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/535 死んでも生きる

 イエスは彼女(マルタ)に言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
                            ヨハネの福音書11章25~26節

 マルタの兄弟、ラザロは病死して岩山の洞窟の墓に入れられ数日経っていました。そこにイエスがやって来ました。イエスは、死を打ち破って永遠のいのちを与えることができる方です。「永遠のいのち」とは、イエスを信じる者に、信じた瞬間に与えられるもので、ただ単に時間的に長いという意味ではなく、時間を超越した、質的にも新しいいのちのことです。
 ですから、イエスを信じる者は、今の肉体が死んでも、イエスと同様によみがえって、永遠のいのちに生きることができるのだと教えています。
 ところで、「このことを信じますか?」は、マルタに向けて問われ、マルタは、「信じます」と答えました。その直後、ラザロは生き返って洞窟から出てきます。近所の人々は、驚き、死者を復活させる力のあるイエスを信じました。イエスのが十字架にかかる前のできごとですが、死者を復活させる力のあるお方であることを示されました。 この場面は、直接にはマルタに語られた言葉でしたが、今の21世紀を生きる私たちにも投げかけられている信仰を問う質問です。「あなたは、このイエスを信じますか。」

2024年3月24日日曜日

2024年03月24日 第4主日礼拝 十字架上のイエス

招詞
 主よ、あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。わが神、主よ、私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめます。                詩篇86篇11~12節

聖書箇所
マルコの福音書15章21節~47

説教
十字架上のイエス 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/534 クレネ人 シモン ②

 兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を、無理やり背負わせた。かれはアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。 マルコの福音書15章21節

 マルコの福音書では正確にその息子たちの名前を記しています。二人の息子の名前は「アレキサンドロ」、そして「ルフォス」です。後者の名前は使徒パウロがローマの教会に宛てた手紙の中に登場します。ヤコブの息子シメオンは、乱暴で良い兄弟ではなく信仰的に負の遺産を持つ者でした。しかし、シモンという名前が、ルカの福音書では意図的とも言えるほどに多出しています。
  (1) エルサレムの老シメオン
  (2) ガリラヤで召命を受けた弟子のシモン・ペテロ 
  (3) ガリラヤのパリサイ人シモン 
  (4) クレネ(地中海)人でイエスの十字架を背負ったシモン 
  (5) サマリヤの魔術師シモン 
  (6) ヨッパの皮なめしのシモン 
  (7) アンテオケのニゲル(アフリカ)と呼ばれたシメオン⇒これが「クレ ネ人シモン」と同一
    人物。
 このように、福音宣教の重要な場所(拠点)には必ずや「シモン」(シメオン)が存在しています。聖書の中に、これほどに「シモン」という名が記されていることは、神の救いのマスタープランにおいて、創世記の時代から疎んじられ、散らされていたシメオン族の子孫が、再び集められ、歴史の舞台に登場しています。これは、負の遺産を持つシモンの名誉挽回であり、私たちに対しては、逆転人生の可能性を見せてくれています。      (銘形 「ルカの福音書の瞑想」より一部引用)

2024年3月16日土曜日

2024年03月17日 第3主日礼拝 イエスのエルサレム入城

招詞
 まことに、神である主は太陽、また盾。 主は恵みと栄光を与え、誠実に歩む者に良いものを拒まれません。 万軍の主よ、なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。
                                 詩篇84篇11~12節

聖書箇所
マタイの福音書21章1節~11

説教
イエスのエルサレム入城 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/533 クレネ人シモン

 彼ら(兵士たち)は、イエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。     ルカの福音書23章26節

 シモンのヘブル語はシメオンです。新約聖書では、イエスの両親が幼子イエスを主にささげるためにエルサレムに連れて行った時、シメオン老人が幼子イエスを見て腕に抱いて神をほめたたえました。新約聖書には、実に多くのシメオン=シモンと名乗る人物が登場します。シメオンはシェマー(聞く)から来ていてその名前に隠されている意味は「御子に聞く」ということです。
シモンは「無理やり」(=強制的)ではありましたが、イエスの後を、十字架を背負ってついて行きました。ルカはこの場面をわざわざイエスの「後から運ばせた」(ルカ23:26)と記しています。ここに「御子に聞き従う」というシモンの名の本質が描かれています。そのシナリオを描いたのは、他ならぬ神ご自身なのです。シモンに倣い、主に心から聞く者とさせていただきましょう。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
                                ルカの福音書14章27節                
                            (銘形「マタイ3」より一部引用)

2024年3月10日日曜日

2024年03月10日 第2主日礼拝 神の時に生きる

招詞
 万万軍の主よ、 なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり、 心の中に、シオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の沸く所とします。
                                 詩篇84篇1a、5~6節

聖書箇所
伝道者の書3章1~22節

説教
神の時に生きる 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/ 532 イエスと歌う賛


 彼ら(イエスと弟子たち)は、旧約聖書の詩篇115篇以下の賛美歌を歌ってから、オリーブ山に出掛けて行った。                 マタイの福音書 26章30節 (現代訳)

 過ぎ越しの食事の締めくくりが、この詩篇の賛美でした。過ぎ越しの食事では、113篇あるいは118篇も良く用いられたので、そちらだったかもしれません。注目すべきことは、イエスさまが弟子たちと一緒に賛美歌を歌ったことを記す貴重な箇所だということです。ユダヤ人の福音書と言われるマタイと最も早く書かれた福音書と言われるマルコに記されています。以下、彼らが暗誦していたはずの詩篇115篇16~18節です。

「天は主のもの、地は人にゆだねられた。死んでしまえば、主を賛美することはない。私たちは、今からとこしえまで主を称賛しよう。主をほめたたえよう。」           (現代訳)

1テサロニケ4:13~18には、死者の復活と生きている信者たちの空中携挙、そしてそれに続く千年王国と、教会時代のクリスチャンである私たちには特別意味のある預言が書かれています。私たちは主イエスさまと対面で出会い、毎日、賛美に明け暮れることができます。
その前味をこの時の弟子たちは体験しました。イエスさまの公生涯の最後は激動の2週間で、受難に至る記事が満載されています。過ぎ越しの祭りの1週間もイエスを亡き者にしようとする反対者たちの暗躍が見られました。
ヨハネの福音書13章には、洗足の記事があります。今週、じっくり読んでみましょう。イエスは、十字架の苦難を予見しつつも、顔には出さず、弟子たちにご自分の愛を余すことなく伝えようとされた(13:1)のです。

2024年3月3日日曜日

2024年03月03日 第1主日礼拝 教会の過去・現在・未来

招詞
 万軍の主よ、あなたの住まいは、なんと慕わしいことでしょう。 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って、絶え入るばかりです。私の心も身も、生ける神に喜びの歌を歌います。 
                                   詩篇84篇1~2節

聖書箇所
コロサイ人への手紙1章21節~2章7

説教
教会の過去・現在・未来 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/531 レント2 もっと善いもののために

 人の子は、多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらねばならない、と語られた。 イエスは、皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。 」 
                              ルカの福音書9章22~23節

 レントとは復活祭に先立つ40日間(日曜日を除く)で、神にもう一度立ち返る期間、自省と悔い改めの期間、祈りとみことばと断食などを通して、改めて自分を主に捧げ直す期間です。伝統的には、イエスが荒野に退いて試みを受けられた40日間に合わせて、この期間は何らかの食べ物や活動などを節制することがなされてきました。
また、レントに断食したり、何らかのものを手放したりするのは、自分に苦行を課すことが目的ではなく、もっと善いもののために、時間と場所を作るためだとも言えます。たとえば、昔、便利な「チン」はもちろん、ガスも無い時代に料理にかけていた時間を減らすために婦人たちが肉料理を少なくすることなどで御言葉をより深く味わうとか、男性も自分が多くの時間を費やしている活動(趣味も)を制限することで、さらに祈りに時間を費やしていました。
今年のレントはすでに半分ほど過ぎていますが、3/31のイースターまでまだ4週間あります。この期間、私たちの罪のために十字架につけられたイエス様の受難を思いつつ、自らを振り返り、自分の生活の中で主に立ち返るよう招かれている領域がないか、祈りをもって思い巡らしてみてはいかがでしょうか。                (中村佐知<JCFN理事>のブログより一部引用)