2016年3月27日日曜日

2016年03月27日 イースター・召天者記念礼拝

招詞
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。                     ヨハネの福音書 3章16節
                    
聖書箇所
マタイの福音書 28章1~10節

説教
イエスの死と復活 田口勇新牧師
MP3音声ファイル


※音楽部特別賛美
MP3音声ファイル

2016年3月20日日曜日

2016年03月20日 第3主日礼拝 復活は神の力による

招詞
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。                                           ローマ人への手紙 6章23節
                    
聖書箇所
マルコの福音書 12章18~27節

説教
復活は神の力による ラジャー・オルソン牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ51/「ゴルゴダの丘」
「彼らはイエスをゴルゴタの場所 (訳すと、『どくろ』の場所)へ連れて行った。それから、彼らは、イエスを十字架につけた。                                             (マルコ15:22、24)

エルサレムでは、罪人の死刑場は、どくろの場所、ヘブル語では、「ゴルゴダ」と呼ばれていました。「カルバリ」は、同じ意味を表すラテン語です。なぜ、こんな奇妙で冷酷な名前が付けられたかは確かにはわかっていません。ローマ法によれば、受刑者は、死後、埋葬されることなく放置されるのですが、ユダヤ人にとっては、それは非合法なことで、死体は日暮れには取り降ろされて、埋葬されなければなりませんでした。つまり、当時、この丘にどくろが散らばっていることなどありえなかったはずです。ですから、この名前は、丘の地形がどくろの形をしていたからではないか、と考えられています。いずれにしても、イエスさまは、全人類の罪を一身に負って、メシア(救い主)としてこの丘を登られ、十字架にかかられました、ローマの鞭で傷つき、血を流し、ひん死の状態で十字架にくぎ付けにされたのでした。25日の金曜日は、この十字架の金曜日です。イエスさまの痛みを覚え、私たちの罪を贖(あがな)ってくださったことに感謝する日として過ごしましょう。
                                     (銘形「イエスの最後の一週間」より一部引用)

2016年3月13日日曜日

2016年03月13日 第2主日礼拝 マリアの選択

招詞
私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。              詩篇 16篇8~9節
                    
聖書箇所
ルカの福音書 10章38~42節

説教
マリアの選択 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ50/「姉妹(アデルフェー)」
「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」(ルカ10:39)マルタとマリヤ姉妹の有名なエピソードが、今朝のテキストでした。この妹と訳されているアデルフェーは、「姉妹」の意味で、姉か妹かという区別はありません。年上の姉妹なら姉、年下なら妹ですが、それだけでは、姉、妹と訳すのは無理があります。なぜ、マリヤを妹と訳したかは実は謎です。新共同訳は、「姉妹」です。英語訳などは全て「a sister(姉妹の単数形)」と訳していますが、新改訳では、アデルフェーは40節でも2回、マリヤのことをさして「妹」と訳されています。もし、ここを、マルタが妹、マリヤが姉と訳すとしたら、それも同じ確率で可能です。おもてなしが得意の妹マルタと、マルタを手伝わず、イエスのことばを一言も漏らすまいと聞く姉らしからぬマリヤです。マルタ妹が、「お姉さんはちっとも姉の役割を果たしていません。叱ってやってください、イエスさま」という話になります。そうだとしても、イエスさまの結論は同じです。「マルタ妹よ。マリヤ姉は、神のことばを聞きたくて、ここに座ったのだから邪魔してはいけない。あなたもここにきてお姉さんの隣で聴きなさい」ということでした。忙しい私たちも、「あなたも忙しくしていないで、座って私のことばを聞きなさい」とイエスさまのことばを聞くことがあるでしょうか?

2016年3月6日日曜日

2016年03月06日 第1主日礼拝 あなたの隣人は

招詞
心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する」ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。                 マルコの福音書 12章33節
                    
聖書箇所
ルカの福音書 10章25~37節

説教
あなたの隣人は 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ49/「深く憐れむ  スプランクニゾマイ」
「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い」(ルカ10:33)の 「かわいそうに思って」という感情は、イエスにのみ使われている語彙で、神の「深いあわれみ」をあらわす動詞「スプランクニゾマイ」です。他の箇所では、マタイ9:36、14:14、15:32、18:27、20:34、マルコ1:41、6:34、8:2、9:22、ルカ7:13、15:20に見ることができます。祭司は、レビ族から選ばれる世襲制でしたから、神の愛と赦しの儀式を代行していた人たちです。しかし、2人とも心を閉ざして、この哀れな人の横を過ぎて行きます。この人への愛は、自分のことは放り出して、「かわいそうに思い」かけよる愛であり助けるべき愛です。自分が損する愛、自己犠牲の愛です。そういう愛は、人は本来持ち合わせていません。この愛の源は、神の愛でなければなりません。この哀れな助けを必要とする人の横を通り抜けて行った人たちは、実地で神の愛を受け、人々の模範として神の愛を示す者でなければなりませんでした。しかし、「かわいそうに思う」心は、高ぶった人の心には存在しません。神の愛は、人が憐れみの心をもつための源泉であり、力です。神の愛を経験している者は、 サマリヤ人でも、敵視していたユダヤ人を助けることができます。ですから、イエスさまは、この律法の先生に「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:37)と、実地体験を勧めました。彼は、その試験にパスしたでしょうか。私たちは、試験に合格できるでしょうか。  (銘形 「律法の読み方」より一 部引用)