2016年12月25日日曜日

2016年12月25日 クリスマス礼拝 天使の賛美に励まされて

招詞
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
                                 ルカの福音書 2章11節
聖書箇所
ルカの福音書 2章8~20節

説教
天使の賛美に励まされて 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ90/栄光(ドクサとカボド) 
「御子は神の栄光の輝き、また 神の本質の完全な現われ・・・」
                                へブル人への手紙 1章3節
 
栄光(ドクサ)は、神の御子イエスにおける神の栄光です。イエスさまは、光であり、輝きでした。ヨハネの福音書1章14節では、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」と書いてあります。イエスさまを見た人たちは、神の栄光を見たのでした。
 ドクサは、へブル語カボドのギリシャ語訳です。栄光(カボド)の持つもう一つの意味は、「重い」です。この世界における最重要なことは、神のひとり子が、この世界に到着なさったことにより、「最も重要な神の啓示がついに実現した」ということです。私たちは、弟子たちのようにイエスさまに直接会うことはできませんが、イエスさまの言葉を聖書で読み、栄光の姿を想像できます。やがて、終わりの日には、直接見ることができるのです。                        (銘形 「ヘブル語の鍵語」から引用)

2016年12月18日日曜日

2016年12月18日 待降節第4主日礼拝 キリストの預言者たち4

招詞
イエスはまた言われた。「わたしは、良い牧者です。
良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
ヨハネの福音書10章11節

聖書箇所
エレミヤ書23章5節
ヨハネの福音書10章11~15節

説教
田口勇新牧師「キリストの預言者 4」
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言(こと)ローグ89/若枝(ツェマハ)
「わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄え て、この国に公義と正義を行う。」
エレミヤ書23章5節
 ここにある「若枝(ツェマハ)」はメシアの象徴です。イエス・キリスト のことを意味しています。この「ツェマハ」は旧約で12回使われています。生えているもの、萌え出るもの、芽生えるもの、枝、若枝、芽を意味します。12回の引照箇所は次の通りです。創世記 19:25、詩篇 65:11、イザヤ書 4:2、61:11、エレミヤ 23:5、33:15、エゼキエル 16:7、17:9- 10、ホセヤ 8:7、ゼカリヤ 3:8、6:12。
 特にエレミヤ 23:8の「 『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた【主】は生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」という預言は、全イスラエルの回復を意味しています。この回復は キリストの再臨を待たなければなりません。歴史は、着実にその方向に向かって進んでいると思います。
(銘形 「エレミヤ書」より引用)


2016年12月11日 待降節第3主日礼拝 キリストの預言者たち 3

招詞
私は見る。しかし今ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こる。
民数記24章17節

聖書箇所
ミカ書 5章2節
マタイの福音書 2章1~6節

説教
キリストの預言者たち 3 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ88/平和(エイレーネー)
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
ルカの福音書2章14節

イエスの平和とローマの平和を比べてみましょう。
 初代皇帝アウグストは、力で敵を打ち負かし、当時の世界に平和をもたらしました。「ローマによる平和」(パックス・ロマナ)と呼ばれます。彼は、自分を神、主(キュリオス)と呼ばせ、人々は救い主とあがめました。彼自身知っていたように、彼は神ではありません。武力で平和を作りだしたのですから、地方では反乱が絶えませんでした。彼の統治こそが福音だとも言われました。しかし、ローマ市民だけが彼の平和と福音の恩恵に浴することができました。一方、イエスさまは、愛の力で、すべての人々の心に平和をもたらしました。神の御子で、真実、主(キュリオス)です。イエスさまの福音は、天の御国に入るための良い知らせでした。ユダヤ人もローマ人(異邦人)も、自由人も奴隷も、すべて天の御国に招かれました。主イエスを信じて、罪を悔い改めることだけが条件でした。
 皇帝は、ユダヤ人を含め、領内の人々を信じないで、常に監視しました。イエスさまは、弟子たちを愛し、信頼してくださいました。そして、今も私たちを愛し、見守ってくださっています。私たちも、弟子としてイエスさまを心から愛し、信頼しましょう。私たちは、困難の中でもイエスさまから心に平和をいただいていて、今日も進むことができますから感謝ですね。

(銘形 「アドベントの瞑想」より一部引用)


2016年12月4日日曜日

2016年12月04日 待降節第2主日礼拝 キリストの預言者たち 2

招詞
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。                     ヨハネの福音書 1章 14節

聖書箇所
イザヤ書9章1~7節 

説教
キリストの預言者たち2 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ87/栄光(カボドとドクサ)
「私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」
                                ヨハネの福音書 1章14節
「神の栄光」を表すへブル語は「カボド」で、ギリシャ語訳は「ドクサ」です。どちらも聖書で沢山使われている神さま用語です。あのバッハは、ドイツの教会のオルガニストでした。彼は毎週の礼拝のために、その日の礼拝の聖書箇所にふさわしい曲を作曲しました。牧師が一つのメッセージを準備して会衆に語るように、バッハも音楽という形で毎週、音楽を作曲したのです。そして、彼の作曲した楽譜には、必ず、「ただ神の栄光のために」という略語が記されていました。だれのためでもない、神に対する信仰と喜びのゆえに作曲したのです。それがバッハにとっての神への献身、神へのささげものでした。
 バッハのように作曲できなくても、私たちの身体は神によって買い取られたものです。私の身体の所有者は神ご自身で、私たちは聖霊の宮です。旧約時代には、神の臨在は幕屋とか、神殿にありました。しかし、イエスさまの十字架のみ業の完成により、神の臨在は私たちの生きざまの中に現れています。今週も、畏(おそ)れをもって、神さまに対する信仰と喜びで、人生を奏でましょう。
                         (銘形「ヘブル語のキーワード」より一部引用)

2016年11月27日日曜日

2016年11月27日 待降節第1主日礼拝 キリストの預言者たち1

招詞
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 この方は、初めに神とともにおられた。                              ヨハネの福音書 1章1~2節

聖書箇所
イザヤ書7章14節
マタイの福音書1章18~23節

説教
キリストの預言者たち1 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ86/待降節(アドベント) 
「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」                          マタイの福音書 1章21節
 「クリスマス」ー救い主の降誕祭ーをよりよく迎えるために、キリスト教会はその前の4週間を「待降節」(アドベント)として霊的な準備の期間として用いてきました。今朝が、待降節の最初の日曜日です。
ところが、毎年迎えるこの期間の過ごし方が、クリスチャンでさえも習慣的なものとなっていることは否めません。しかも日本では「師走」という最もせわしないこの時期、キリスト教会もそれに劣らずクリスマスを伝道の好機として、さまざまなイベントの準備で忙しくしています。
 市民クリスマスコンサートのように意義深い行事は、心を込めて、協力し成功させましょう。ただ、そのために本来のアドベントの意義を見失わないようにしなければなりません。この時期を意識的に、あらたな思いと期待をもって神の賜物である御子イエス・キリストを瞑想する時として心を整え、備えましょう。
神から来る静まりの中で、「ことばに表わせないほどの神の賜物(2コリント9:15)」ー御子イエスの受肉の神秘と再臨の希望ーに深く思いを馳せる時こそ、真のアドベントだと信じます。
                           (銘形「アドベントの瞑想」より一部引用)

2016年11月20日日曜日

2016年11月20日 第3主日礼拝 神の信頼に答える

招詞
主よ。まことに、正しい者はあなたの御名に感謝し、直ぐな人はあなたの御前に住むでしょう。
                                                                                                                    詩篇140篇13節
聖書箇所
ルカの福音書19章 11~27節

説教
神の信頼に答える 田口勇新牧師
言(こと)ローグ85/惜しみなく与える愛(ヘーフェッツ)
「ソロモン王は、その豊かさに相応したものをシェバの女王に与えたが、それ以外にも、彼女が求めた物は何でもその望みのままに与えた。」                      列王記I 10章13節

旧約聖書列王記に記されている、ソロモン王が、名声を聞いてアフリカからやってきたシェバの女王の手土産に惜しみなく何でもあげた、というくだりです。「ヘーフェッツの愛」は、人が神になにかを願って求めることに対して、神が喜んで良いものを惜しみなく与えようとする愛です。天の父は、信じて救われた者たちに良いものを惜しみなく与えることを何よりも喜びとされる神です。この神の惜しみなく与えようとする愛こそ「ヘーフェッツの愛」なのです。ギリシャ語のフィリア(友愛、母性愛)はヘーフェッツに近い言葉と言われますが、神の愛は無限であるのに対して人のフィリアには限界があり、また長続きしません。ヘーフェッツの愛で望まれる神様に、本当に自分が欲しいことを見極めてお願いしましょう。みこころなら与えられます。
                          (銘形 「ヘブル語のキーワード」より引用)

2016年11月13日日曜日

2016年11月13日 第2主日礼拝 人生は出会い?

招詞
わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
詩篇103篇2節

聖書箇所
ルカの福音書 19章 1~19節

説教
人生は出会い? 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ84/一方的な好意「ヘーン」
「ご主人さま。私はあなたの好意(ヘーン)にあずかりとうございます。あなたの使用人でもないのに、こんなにも親切にしていただいて・・」                         ルツ記2章13節

 祝福のことばをかけてくれたボアズに対してモアブの女ルツが、涙が出るほど感動しながら言った言葉です。へブル語の「ヘーン」は、神の人に対する一方的な好意を表すのに使われ、70人訳ギリシャ語聖書では、「カリス=恵み」ということばに訳されました。使徒パウロは、ヘーンの意味を引き継いだカリスが、救われるに値しない者に与えられる神のご好意であり、それが「福音」であると言っています。「すべての聖徒たちのうちで一番小さな私に、この恵みが与えられたのは、私がキリストの測りがたい富を異邦人に宣べ伝えるため...」(エペソ3:8)。この神のご好意(ヘーン)は、今もキリストにあって注がれていますから、神様が自分に良くしてくれることを、大胆に、遠慮することなく、「神様。宜しくお願いします」と言ってよいわけです。大切なことは、自分に与えられた福音の恵みを決して無駄にすることがないような生き方をしようと決心することではないでしょうか。                  (銘形「ヘブル語のキーワード」より引用)

2016年11月6日日曜日

2016年11月06日 第1主日礼拝 叫びをもって

招詞
主のすばらしさを味わい、これを見つめよ。幸いなことよ。彼に身を避ける者は。  
詩篇34篇8節

聖書箇所
ルカの福音書 18章35~43節

説教
叫びをもって 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ83/「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ」
新共同訳では「味わい見よ、主の恵み深さを」と訳されています。ヘブル語で「トーヴ」という形容詞が新改訳では「すばらしさ」と訳され、新共同訳では「恵み深さ」と訳されています。   詩篇34篇には他に3回も「トーヴ」が使われています。10節 「良いもの」、12節 「しあわせ」、14節 「善」です。 

 ダビデは、トーヴの多用によって、「主のすばらしさを味わい、これを見つめよ」という呼びかけを深めていきます。34篇は、苦悩の炉によって練りきよめられ出てきた彼の告白だということです。王としての油注ぎ受けたのち、ダビデはサウル王の嫉みによって命からがら逃亡します。不条理な苦難の生活が始まるのです。この詩篇はその渦中の歌です。しかしそれは彼がやがてイスラエルの王としてふさわしくなるための神の訓練でした。10余年の苦難の生活を余儀なくされます。 私たちも、今、不条理の中で戦っているでしょうか?ダビデのように神のトーヴの世界に目が開かれることで、苦難の中で真の希望の光を受けることができると期待して過ごしましょう。 

2016年10月30日日曜日

2016年10月30日 第5主日礼拝 捨てることで

招詞
【主】よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。                          詩篇139篇1、3節

聖書箇所
ルカの福音書 18章18~30節

説教
捨てることで 田口勇新牧師

言(こと)ローグ82/骨(エツェム)
「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」           箴言14章30節
 心臓(こころ)と腎臓(思い)に続いて、今回は、骨(エツェム)です。
骨は、聖書では、人間の全存在を表す「比ゆ」として使われます。上掲の箴言は、からだの「いのち」と平行法で言い直されています。神からくる穏やかな心だけが、人の全存在を安らかにしてくれます。この用法は、旧約の知恵文学と呼ばれる、ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書などに多く見られます。
・「サタンは主に答えて言った。『・・・彼(ヨブ)の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。』」(ヨブ 2 ; 4, 5)
・「私に、楽しみと喜びを聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。」(詩篇 51:8)
・「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。」(伝道者の書 11:5)
 詩篇 51篇は、ダビデが王になってから犯してしまったバテ・シェバ事件(2サムエル11~12章)の後で、歌われたものです。主は、預言者ナタンを遣わし、彼の「骨(良心)」を激しく攻めました。ダビデは、彼の言葉と主の罰を受け入れて赦されました。この詩は、彼の骨(全存在)に平安が戻った時の詩です。私たちも骨(こころ)が痛む時、主がこれを癒してくださることを信じましょう。しばしば、私たちの骨(こころ)は、主によって砕かれなければならないでしょう。ペチャンコにされても、終わりの状態ではなく、主を喜ぶ文字通り砕かれたこころの状態に変えていただいた姿です。主に近づきましょう。 (銘形「詩篇の修辞的表現」より引用)

2016年10月23日日曜日

2016年10月23日 第4主日礼拝 へりくだって

招詞
正しい神は、心と思いを調べられます。私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。
                                   詩篇 7篇9~10節

聖書箇所
ルカの福音書18章9~17節

説教
へりくだって 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ81/腎臓(キルヤー) 
正しい神は、「心と思い」を調べられます。                                           詩篇7編9節

 「心」と訳されているへブル語「レーブ」は心臓で、悟る心で知的な理解に重きがありました。これに対して、情緒的な意味合いをもつことばは「思い」と訳されている「キルヤー」です。
 「キルヤー」は、いけにえとなる動物(牛や羊、山羊)の腎臓という意味で、出エジプト記(29:13, 22)、レビ記(3:4ほか)などで使われています。腎臓は人の内奥にある感情を司る器官と考えられていたようなので、比喩的な用法では、「思い」と訳されています。
 この「キルヤー」は最も深い情動の座を意味することばで、詩篇 7:9、16:7、26:2、73:21にも使われています。訳語では「キルヤー」が「思い、心、内なる思い」(新改訳の場合)と訳されています。ほかの聖書箇所としては、箴言 23:16、エレミヤ書11:20、12:2、17:10、20:12、哀歌 3:13などです。
 「正しい神は、心と思いを調べられます。」(7:9)の「調べる」とは「テストされる」です。しかし、これは、落第させるためのテストではありません。神さまは、私たちをご自身に近づけてくださるために点検してくださるのです。感謝しつつ心を開いて神さまに信頼しましょう。
                                (銘形「詩篇の修辞」から引用)

2016年10月16日日曜日

2016年10月16日 第3主日礼拝 まして私の神は

招詞
私は心を尽くして主に感謝します。 あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。 私は、あなたを喜び、誇ります。                                 詩篇9篇1~2節

聖書箇所
ルカの福音書18章1~8節

説教
まして私の神は 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ80/心臓(レーブ)
正しい神は、「心と思い」を調べられます。                     詩篇7篇9節
 
「心」と訳されているヘブル語は「レーブ」です。「心臓」を意味します。しかしその意味するところは、私たち日本人が考えるところの「心」とは 違っています。旧約聖書でいう「レーブ」の意味の第一は、情緒ではなく、理解力を意味します。耳の働きは聞くことで、目の働きは見ることですが、 心(レーブ)の働きは理解すること、つまり「悟る」ことです。確かに、日本語の「心」は、知性、感情、意志のすべての働きを意味していますが、ど ちらかといえば、情緒に重きが置かれるような気がします。しかしヘブル語の「レーブ」は、むしろ知性と意志の働きと強くかかわります。
 「レーブ」は理性だけでなく、意志の働きとも深くかかわっています。詩篇24篇3節、4節の「だれが、主の山に登りえようか。だれがその聖なる所に 立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者・・・」とあります。「手がきよい者」とは、悪事を行なわない人という 意味ですが、「心がきよらかな者」とは、悪事を意図しない人のことです。つまり、聖所に立てる者とは、悪を行なわないだけでなく、それを意図した り、計画したりしない人という意味です。ご聖霊の助けにより、心がきよらかな者にさせていただきましょう。
                               (銘形  「詩篇の修辞」から引用)

2016年10月9日日曜日

2016年10月09日 第2主日礼拝 いのちより大切なもの

招詞
【主】よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。 あなたは私の心に喜びを下さいました。                                    詩篇4篇6~7節

聖書箇所
マタイの福音書16章24~27節

説教
いのちより大切なもの 斎藤 満師
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言(こと)ローグ79/身を避ける(ハーサー)
「 幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。 」                  詩篇2編12b節

 身を避ける」と訳された「ハーサー」 は、他に、「声を上げない」「静まる」「沈黙する」「無言」、といったことばでも訳されています。この詩2篇は、まさに神に対する勢力が「騒ぎ立ち」「空しくつぶやき」「立ち構える」状況に対して、神が御子イエスによって、彼らを打ち破るという神の救いの計画の全貌が預言的に語られている詩篇です。そうした文脈の中での「身を避ける」とは、どんな環境や状況に置かれることがあっても、主の信頼によるゆるぐことのない平安、落ち着き、沈黙が与えられることです。
 ガリラヤ湖で、イエスの弟子たちが舟で向こう岸に渡ろうとしたときに、突然襲った突風で、今にも舟が沈みそうな恐れの中で弟子たちは、主イエスに「なんとも思わないのですか」とその恐れをぶちまけています。しかしそのときイエスはなんと眠っておられました。これは御子イエス が御父に「身を避けて」おられたからです。
 神の子とされた私たちクリスチャンのこの世の務めは、何よりも主を信頼することです。いろいろな人生のチャレンジに向かいますが、イエスが「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)と言われたように、「主に身を避ける」ことを学ぶことなしに、私たちがなし得るものは何一つないこと を、心に深く刻みつけたいと思います。            (銘型 「詩篇原典の瞑想」より引用)

2016年10月2日日曜日

2016年10月02日 第1主日礼拝 神様の計り知れない赦し

招詞
イエスは言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」                         ヨハネの福音書14章6節

聖書箇所
マタイの福音書18章21~35節

説教
神様の計り知れない赦し ロビソン・ディビット師
言(こと)ローグ78/「口ずさむ」 ハー ガー
「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」         詩篇1篇2節

 「口ずさむ」(あるいは「思い巡らす」(英訳meditate)と訳されている「ハー ガー」旧約で25回、そのうち詩篇では10回使われています。その意味は、「うめく」「つぶやく」「声を出す」「さ さやく」「親しく語る」「考える」「思う」です。旧約の詩人にとって、神とそのみことば、あるいは御業は口を用いて言い表すことに直結さ れていたようです。口語訳では「思う」と訳されていた「ハーガー」を、新改訳、新共同訳で「口ずさむ」と訳しているのは原意に近づけたものと思われます。ちなみに、バルバロ訳では「瞑想し」典礼訳では「心に留める」と訳されています。
 「主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」者こそ幸いなことだとするこの詩篇の第1篇は、詩篇全体を読み解く大切な鍵とも言える詩篇だと言えます。というのも、詩篇はもともと神の御前での瞑想によって生まれたものであり、それが書き記され編纂された目的は 神の民が瞑想に用いることができるためでした。それゆえ、詩篇は今日に至るまで瞑想の祈りの源泉となっています。
                                            (銘形 「詩篇の世界」 より引用)

2016年9月25日日曜日

2016年09月25日 第4主日礼拝 疑う人トマス~その答~

招詞
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖 い、すなわち罪の赦しを得ています。     コロサイ人への手紙1章3、4節

聖書箇所
ヨハネ20章24~31節

説教
疑う人トマス~その答~ 菅孝雄兄

言(こと)ローグ77/「植える」 シャー タル
「悪しき者の謀略に歩まず罪人の道に立たずあざける者と座を同じくせぬその人に幸あれ。その人は、流れのほとりに移し植えられた樹のように、彼はその期がくると実を結ぶ。」      (詩篇1篇1、3節 関 根訳)

・詩篇における最初のキイーワードは、「植える、移植する」(シャータル)で、神が人に対し てなされる恵み深い行為を表わす動詞です。ここでは、幸いな人が「水路のそばに移し植えられた木」にたとえられています。この木は、本来そこにあった自然木ではなく、異なった場所に植わっていた木を水路のそばに(水の流れのほとりに)移して、植え直された木です。そして、大切なのは、木ではなく、その木を水路のそばに移植した主なる神さまの存在です。水の流れのほとりに移し換えられることで、どんなに灼熱の太陽の下でも、決して枯れることがなく、むしろ、根を深く下ろして頑強な木として成長し、多くの豊かな実を結ぶようになり ます。
・使徒パウロは「神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。」(コロ サイ1章13節)と述べています。「暗やみの圧制から愛する御子のご支配の中に」です。この「移し変えの恵み」 が、詩篇1篇にはっきりと描かれています。私たちも水辺に移植された木として、神の下さる滋養をいただき、また愛のシャワーをいっぱい浴びて成長してまいりましょう。
                                          (銘形:「詩篇の世界」より加筆引用)

2016年9月18日日曜日

2016年09月18日 第3主日礼拝 穀物のささげ物

招詞
主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。                              イザヤ書42章10節

聖書箇所
レビ記2章1~16節

説教
穀物のささげ物 老松望KGK主事
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言(こと)ローグ76/新しい歌 シール・ハダーシュ
「新しい歌を主に歌え」詩篇36篇1節ほか、詩篇には、「新しい歌を主に歌え」という命令が多く記述されています。
    神の民である教会はその最初から歌う共同体でした。賛美なしの礼拝は考えられません。キリスト教会はこの伝統をその母胎であったユダヤ教、ないしは旧約聖書の詩篇から受け継ぎました。特に詩篇は賛美の源泉です。その詩篇の中に「新しい歌」という表現が見られます(聖書では9回のうち6回までが詩篇にあります)。詩篇に発した「新しい歌」は、キリスト教会の歴史の初期から現代に至るまでの各時代に作られ、今日まで歌い続けられてきています。

 神の世界における「新しさ」は、外面だけではなく、内面の質的な新しさ、霊的な刷新と回復を意味します。新しい霊の歌を口ずさみましょう。目をあげて主に歌いましょう。
                         (銘形「ヘブル語のキーワード」から加筆引用)

2016年9月11日日曜日

2016年09月11日 第2主日礼拝 「人の子」と呼ばれるメシア

招詞
全地よ。主に喜び叫べ。大声で叫び、喜び歌い、ほめ歌を歌え。 立琴に合わせて、主にほめ歌を歌え。                                                     詩篇98篇4~5節
聖書箇所
ルカの福音書17章20~37節

説教
「人の子」と呼ばれるメシア  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ75/「人の子」(ヒュイオス トゥ アンスロープー) 
「しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。」
                                                  ルカの福音書17章25節
イエスさまは、ご自分をさして「人の子」と呼びました。理由は、当時、神の国とは、圧制を続けるローマ帝国に対抗できる、軍事王国の意味合いで考えられていたので、誤解を避けるためでした。そのまま「人の子」と福音書にも記され、後代の私たちも、文脈からイエスさまご自身のことだと判ります。人の子は、王、僕(十字架のイエス)、審判者の3つの立場を持っています。十字架だけがすでに起こり、他の2つは今なお続いています。ルカの福音書から抜粋すると次のようになります。後で、時間をとってゆっくりと読んでみてください。 
 (王)5:24, 6:5, 9:58, 11:30, 12:8, 12:10, 17:22, 19:10
 (苦難の僕)6:22, 7:34, 9:22, 26, 44, 17:24, 18:31, 22:48, 24:7
 (審判者)9:26, 12:40, 17:26, 18:8, 31, 21:27, 36, 22:69。
 
17章26節で、「イエスさまの再臨が、神さまが時が来たと判断されれば突然にでも起こる」と書いてあります。このおことばは私たちに緊張感を与えますね。          (銘形「ルカの福音書」から加筆引用)

2016年9月4日日曜日

2016年09月04日 第1主日礼拝 音楽礼拝 

招詞
新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。     詩篇 96篇1節

聖書箇所
詩篇6篇

説教
嘆きと賛美 田口勇新牧師
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2016年8月28日日曜日

2016年08月28日 第4主日礼拝 信仰は神の賜物

招詞
主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。
                                                    詩篇139篇1、3節
聖書箇所
ルカの福音書17章1~19節

説教
信仰は神の賜物 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ74/兄弟愛(フィラデルフィア)と 愛(アガペー)
「あなたがたは、あらゆる努力をして、信仰には徳を、....兄弟愛には愛を加えなさい」
                                             ペテロの手紙第2 1章5、7節
「兄弟愛」と「愛」のように愛が2度繰り返されています。「兄弟愛」はフィラデルフィアで、「愛」はアガペーです。この違いは何でしょうか?フィラデルフィアは、フィレオ(愛)とアデルフォス(兄弟)という2つの語から成る合成語です。フィレオは、親子愛(母性愛も)を含む兄弟愛を示す言葉で、人が相手に与えることのできる最高の愛です。アガペーは、神の完璧な愛を示す言葉です。
 ではペテロは、なぜ、人が持つことのできないアガペーの愛を加えるように言ったのでしょうか? それは、キリスト者以外の人々を含むすべての人を愛するようにという強い勧めです。神の愛を反映させながら、人々の救いを心から願い、主をあかししながら仕えることです。中国奥地宣教団(CIM、現OMF)のホースト総裁は、「神は私たちの愛を富ませるために、愛しにくい人をそばに置かれることがある」と自分の体験を告白しました。私たちのまわりには、愛しにくい人がいますか?神さまに願い、兄弟愛に愛を加える信仰を与えていただきましょう。                         (櫛田節夫 「ペテロの手紙2 講解」より加筆引用)

2016年8月21日日曜日

2016年08月21日 第3主日礼拝 お金の好きな人

招詞
私は心を尽くしてあなたに感謝します。まことに、主は高くあられるが、低い者を顧みてくださいます。
                                                   詩篇138篇1、6節
聖書箇所
ルカの福音書16章14~31節

説教
お金の好きな人 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ73/「 貧しい人(プトーコス)」
ルカの福音書(16:20,22)で語られている「貧しい者」(プトーコス) とは、「社会の中で不利益な立場に置かれている人々」を意味しています。当時の社会的なカテゴリーにおける集合的な語彙として使われました。マタイの福音書5章3節では、指導者たちを含む、一般の人々が、「心の貧しい者」という言い方で、もし、自分が実は霊において貧しいということに気がつき、認めることができれば、謙遜と神への信頼に導かれていく、だから幸いです(祝福です)と言われています。これに対して、ルカの福音書では、字義通り、ほとんど社会的に疎外されているところの貧しい人々を取り上げ、彼らに関心が向けられています。今日の社会的弱者プラス地位やお金があっても心貧しい人たち、神さまの愛から離れている人たちが、プトーコスでした。イエスさまの目は、いつもプトーコスに注がれていました。
                                          (銘形「ルカの福音書」より一部引用)

2016年8月14日日曜日

2016年08月14日 第2主日礼拝 相手の罪を赦しなさい

招詞
不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。主が罪を認めない人は幸いである。
                                               ローマ人への手紙4章7節
聖書箇所
ルカの福音書16章1~13節

説教
相手の罪を赦しなさい 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ72/「弱さを誇る 」
「私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです。」                                  コリント人への手紙 第2 12章9b~13節
 お笑い芸人などが、自分の欠点や、弱さをわざと人前で言って惹きつけるのは、「自虐ネタ」と言われます。しかし、パウロの場合、「弱さを誇る」と公言した時、人を惹きつけるための自虐ネタだったのではありません。「神ご自身が選ばれた使徒として、自分が高ぶって破滅し、倒れてしまうことがないように、神は恩寵として、彼の肉体にひとつのとげを与えられた」とパウロは告白しています。とげとなる肉体の痛みがなんであったのは実ははっきりとは分からないのですが、とげは痛いわけですから、パウロは主にこのとげを取り除いてくださいと祈ったのです。「そうすればもっと神様のために働けますから。どうぞ取り去ってください」と三度も嘆願しました。しかし、主の答えは意外でした。「わたしの恵みは弱さの中に完全に現される」(12:9a)。パウロはこれ以来、この「とげ」を持って生きていくことを良しとし、「弱さを誇る」ことにしました。
                                           (銘形「謙遜への招き」を一部引用)

2016年08月07日 第1主日礼拝 今朝、なぜここにいますか?

招詞
しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。
                                        ペテロの手紙第一 2章9節

聖書箇所
ヘブル人への手紙10章24~25節

説教
今朝、なぜここにいますか? ジョン・オルソン師
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2016年7月31日日曜日

2016年07月31日 第5主日礼拝 兄息子の問題

招詞
神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。 あなたは、それをさげすまれません。
                                                  詩篇51篇17節
聖書箇所
ルカの福音書15章11節~32節

説教
兄息子の問題 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ71/「赦す」 アフィオメン
「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」 ルカの福音書11章4節

 主の祈りのこの部分は、マタイの福音書とルカの福音書の語彙に微妙な3つの違いがあります。一つ目は、ルカの「負い目」は、マタイでは「罪」、2つ目は時制で、マタイは「私たちも、私たちに負いめのある者たちを赦しました。」です。3つ目は、ルカでは、「みな(赦します)」です。しかし、これらの違いはこの祈りを理解する上で妨げとはなりません。むしろ、その違いを相補的に理解することが賢明です。この部分で重要なことは、「神に対する負いめ(罪)の赦し」が、「自分たちに対する負いめのある者たちを赦す」ことと密接な関係をもっているということです。この意味で、ルカの福音書15章の放蕩息子の兄やパリサイ人、律法学者たちは、自分も赦し愛されているにも関わらず、どうしても赦せない人たちがいたという深刻な問題をかかえていることになります。私たちもこれをチャレンジとして受けとめていきましょう。                                                              (銘形「ルカの福音書」から一部引用)

2016年7月24日日曜日

2016年07月24日 第4主日礼拝 迷子の羊を

招詞
人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。                ルカの福音書19章10節
                    
聖書箇所
ルカの福音書15章1節~10節

説教
迷子の羊を 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ70/「銀貨」ドラクマ
「女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか」       ルカの福音書 15:8
 このたとえで問題にされている銀貨は、ドラクマ銀貨で、このか所のギリシャ語は、ドラクマです。これは一枚2500円ほどの価値だと言われていて、当時のローマ帝国の労働者の一日分の賃金に相当します。彼女が必死に探したのは、家が貧しく、ご主人や子どもたちに食べさせるのに無くてはならないお金だったからでしょう。しかし、10枚のうちの1枚というのが気になります。これは、パレスチナでは、既婚女性のしるしが、銀の鎖に10個のドラクマ(銀貨)をつけた髪飾りだったことから、今日の結婚指輪に相当するものだったと言われます。そのことを考えると、その1枚を家のどこかに落としてしまって必死に探したこと、見つかったときに近所の人と喜んだというのもうなずけます。ただし、イエスさまのおっしゃりたかったことは、見つけるまで、念入りに探した彼女の姿勢で、この姿勢を神さまが罪人をあきらめずに探す熱心さにたとえています。私たちの救いは、自分で熱心に神を求めたからではなく、神さまが熱心に探して見つけてくださったおかげ、というのが真相でした。感謝しましょう。                (バークレー 「ルカ福音書」より一部加筆引用)

2016年7月17日日曜日

2016年07月17日 第3主日礼拝 イエスの弟子道3

招詞
あなたがたは、世界の光です。
あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。                 マタイの福音書5章14、16節
                    
聖書箇所
ルカの福音書 14章25~35節

説教
イエスの弟子道3 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ69/「塩」ハラス
塩(ハラス)は良いものですが、もしその塩が塩けをなくしたら、何によってそ れに味をつけるのでしょうか。                                                       (ルカ14:34)
 塩には3つの効用があります。①防腐剤 古来、塩は、腐敗を防いだり、遅くするために使われました。漬物が長く保存できるのもこの効用です。キリスト者は、世の腐敗にまみれず、戦います。➁調味料 食物を美味しくする基本的な調味料です。キリスト者は、勇気、希望、愛、親切で世の人々の生活に味を添えていく者です。③畑の肥料や土壌改良材 古代から現代でも、農業への塩の利用は重要です。クリスチャンは、世の人々の中に入りながら世の悪には染まらず、逆に無くてはならない良い影響力を世に与え、聖霊の実を結ばせます。                               (バークレー 「ルカ福音書」より一部加筆引用)

2016年7月10日日曜日

2016年07月10日 第2主日礼拝 神の国の食卓

招詞
イエスは、言われた。
「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。」
                                               マタイの福音書5章2~3節
聖書箇所
ルカの福音書14章1~24節

説教
神の国の食卓 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ68/自尊心(セルフ・エスティーム)
招かれるようなことがあって、行ったなら、末席に着きなさい。そうしたら、あなたを招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください』と言うでしょう。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。      ルカの福音書14章10節
 この「面目を施す」は、「尊敬される」の意味でしょう。自尊心が正しく満足されるからでしょうか。ただ、成功志向の強い現代の世界では、結果が自分には価値がある、と思い込ませる怖い力を持っています。自分のしたことの結果に左右されすぎると、自分の人生は、自分の価値を決めるポイントを誰かが書き込んでいる大きなスコアボードである、という落とし穴にはまります。そこに気がついたときはすでに、採点する多くの人たちに自分の魂を売り渡してしまっていることになります。クリスチャンとして「自尊心を高く持つ」ということは、上の例のようにたとえ上席を薦められることにならなかったとしても、自然体で末席に着き、ひがむこともなく、その席で満足できることでしょう。
                          (ヘンリ・ナウエン「静まりから生まれるもの」より一部加筆引用)

2016年7月3日日曜日

2016年07月03日 第1主日礼拝 狭い門から入りなさい

招詞
「わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」                                             ヨハネの福音書10章9節
                    
聖書箇所
ルカの福音書13章18~35節

説教
狭い門から入りなさい 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ67/「努力して」か「勇気をもって」か
今朝の聖書か所に「努力して狭い門から入りなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、入ろうとしても、入れなくなる人が多いのですから。」(ルカ13:4)と、あります。努力するとはどんな意味でしょうか?ギリシャ語アゴニゾマイは、スポーツなどで勝利をめざして「競って」の意味です。しかし、人との競争ではなく、自分で決心して門をくぐりなさい、という文脈にはあまりあてはまらないように思います。イエスさまは、ヘブル語で説教なさったので、おそらくアーマツの強意形(ヒットアンメツー)を使われたと思います。実際、ヘブル語のルカの福音書では、アーマツで、この意味は、「勇気をもって」です。そうすると文脈にもスッと入ってくるように思います。イエスさまに従う弟子たちは多かったといっても全体からすれば少数派です。イエスさまを救い主と信じて、人々に告白し、天の御国をめざすことは、勇気を必要とすることでした。イエスさまは、いのちに至る門です。その狭さは、入るのに勇気を必要とする狭さです。イエスさまは、「多くの者たちが、パリサイ人や律法学者の側についているときにも、勇気をもって、わたしをを信じ、神の国を求め続けることを堅く決心せよ」と励ましているのです。クリスチャン人口1%の日本にいる私たちも少数派です。勇気をもってただ「狭い門」であられるイエスさまを信じ、ついていきましょう。                                                               (銘形 「ルカの福音書を味わう」より加筆して引用)

2016年6月26日日曜日

2016年06月26日 第4主日礼拝 「悔い」と「悔い改め」

招詞
神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません。
                                                  詩篇51篇17節
聖書箇所
ルカの福音書 13章1節~17節

説教
「悔い」と「悔い改め」 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ66/聖霊(ハギオス ニューマ)
聖霊(ハギオス ニューマ)は、聖書のキーワードです。マタイ、マルコ、ヨハネの福音書(共観福音書と呼ばれます)の中で、イエスの生涯と聖霊の関わりを特に印象的に書いているのはルカです。ルカはその福音書の最後の部分を、「父の約束を待つように」というイエスのことばをもってしめくくっています(24章49節)。続く、使徒の働きでは、ルカの福音書の続編として、今や聖霊がキリストの働きの後継者のように神の御国の働きを受け継いでいます。ぺンテコステにおいては、かつての旧約聖書の特定の人たちに聖霊が与えられたものとは異なり、教会という共同体に対して聖霊が降り注ぎ、その中の信者すべてに対して与えられました。イエスさまは、聖霊により身ごもったマリヤから生まれ、両親が幼子イエスを連れて神殿に行った時、聖霊に導かれたシメオン老人は、幼子を抱き、祝福しました。イエスさまの宣教も、聖霊の導きで始められ、進められました。教会についても、初代教会いらい、聖霊は、教会の宣教を導いてこられました。その教会の一員である私たちも、おおいに聖霊の導きと祝福に預かっています。
                                (銘形 「ルカの福音書の神学的考察」より一部引用)

2016年6月19日日曜日

2016年06月19日 第3主日礼拝 イエスの再臨を待つ②

招詞
新しい歌を主に向かって歌え。喜びの叫びとともに、巧みに弦をかき鳴らせ。          詩篇33篇3節

聖書箇所
ルカの福音書 12章49~59節

説教
イエスの再臨を待つ② 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ65/待ち受ける(プロスデコマイ)
イエス様は、ルカの福音書12章35~40節の中で、4つの待ち受ける(プロスデコマイ)ポイントがあると言っておられます。文脈は、イエスさまの再臨を待つ態度について語られたか所です。

①「腰に帯を締めて」待ち受けなさい(35節)―緊急事態に備えた行為を意味します。
②「あかりをともして」待ち受けさない(35節)― 再臨は、夜かもしれないので、あかりを絶やさないように、とのアドバイスです。
③「目をさまして」待ち受けなさい(37節)― いつでも対処できる構えを意味します。
④「用心して、準備して」待ち受けさない(40節)― 警戒と備えをして待ちなさい、です。

待ち受ける(プロスデコマイ)は、プロス(に向かって)とデコマイ(受け入れる)の合成動詞です。ただ待つという、受身的で静的な動詞ではなく、積極的で動的な、意味合いがあります。時間軸で言えば、私たちは、再臨の時に向かって時間の中を進むわけですから、リラックスし楽しみながら、しかし緊張もありの信仰生活を象徴する言葉であると気がつきますね。           (銘形 「ルカの福音書を味わう」から一部引用)

2016年6月12日日曜日

2016年06月12日 第2主日礼拝 イエスの再臨を待つ①

招詞
神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。                                         詩篇 36篇7、9節

聖書箇所
ルカの福音書 12章35~48節

説教
イエスの再臨を待つ① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ64/イエスの「再臨」と十字架
イエスさまの再臨のことを真剣に考えたことがありますか?明治時代のクリスチャン内村鑑三は、明治10年(1877)、16歳で札幌農学校(現北海道大学)に入り、翌年に洗礼を受けました。彼は51歳の時に、長女「ルツ子」の死を経験し、家族の試練となりました。しかし、内村は、この時、明確な復活信仰を得ています。そして55歳の時、キリストの再臨に目が開かれました。内村の信仰の確信です:「十字架が聖書の心臓部であるなら、 再臨はその脳髄であろう。再臨なしでは、十字架は意味をなさない。したがって、私たちクリスチャンは再臨の立場に立って聖書を通読しなおす必要がある。信仰を維持するために、再臨の希望は必要欠くべからざるものである」。聖書によれば、クリスチャンは、イエスさまの再臨を信じて毎日を過ごしているはずです。私たちは、どうでしょうか。家族や親しい人と話し合ってみましょう。                                                          (銘形 「ルカの福音書を味わう」より部分引用)

2016年06月05日 第1主日礼拝 天に積む宝

招詞
神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。                                             マタイの福音書6章33節
                    
聖書箇所
ルカの福音書 12章13~34節

説教
天に積む宝 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ63/「2つの命 」
「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」                                           (ルカ12:15)
 新約聖書では、2つの「いのち」ということばがあります。「ゾーエー」と「プシュケー」です。「ゾーエー」は、神が、私たち人間の霊を生かして、 生きていく力を与えていく根源的な「いのち」です。一方の「プシュケー」「いのち」は「魂」とも訳され、肉体的身体的な生命だけでなく、精神的な意味での 「いのち」を意味します。上記ルカ12:15の「いのち」は、「ゾーエー」のいのちです。人の精神や魂は、財産が豊かであるほど満足するかもしれません が、これは「プシュケー」の方です。物質的に豊かになっても、「ゾーエー」のいのちを満足することはできません。イエス様は、人が陥りやすいこのミスマッチを指摘されたわけです。
(銘形:「ルカの福音書を楽しむ」から加筆引用)

2016年5月29日日曜日

2016年05月29日 第5主日礼拝 悪いパン種

招詞
主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよ。                                        詩篇28編7節                    
聖書箇所
ルカの福音書 11章37~12章12節

説教
悪いパン種 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ62/きよめの洗い

「そのパリサイ人は、イエスが食事の前に、まずきよめの洗いをなさらないのを見て、驚いた。」  ルカ11:38
このパリサイ派の人は、イエスさまと弟子たちを食事に招きました。そこで、イエスさまが食事の前の「きよめの洗い」をしなかったことに驚いていました。
このことは、イエスさまたちが、食前に手を洗わな人たちだ、という意味ではありません。このケースでも、聖書にも書いていないことを、造りあげて、エルサレムからの通達としてこの「手洗いの儀式」が生まれたと言われています。
ですから、ここでイエスさまは、心の伴わない儀式だけを重視するパリサイ人の信仰姿勢を厳しく非難されました。イエスさまは、この他のか所でも、聖書に基づかないいろいろな規則を作ったことでかえって、心が愛の神さまから離れてしまっている宗教指導者たちを非難しています。                                                           (銘形:「ルカの福音書を味わう」から加筆引用)

2016年5月22日日曜日

2016年05月22日 第4主日礼拝 神の光を見る目を

招詞
イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。 わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」                                ヨハネ8章12節                    
聖書箇所
ルカの福音書11章14~36節

説教
神の光を見る目を 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ61/「 神の指 」
「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているのなら、神の国はあなたがたに来ているのです。」                                               ルカの福音書11章20節

 イエスは、「もし、わたしが神の指(聖霊のこと)によって悪霊どもを追い出しているなら」と言っておられます。ここには、神の霊でない暗やみの力で悪霊が追い出されるケースもあることが示唆されています。しかし、前よりも悪い霊が、その人にとりつく、と警告しておられます。言うまでもなく、イエスが使われたのは、聖い神の力でした。ですから、神の国はあなたがたに来ているのだ、という傍線部分がアオリスト形で、すでに成された事実、覆すことのできない事実を表す時制で記されています。イエスは、ここで、敵対者たちも周知の「神の指」(出エジプト8:19) という表現を使われました。モーセが、エジプトのパロのもとへ行って、奴隷たちを解放するように要求したと き、パロはその要求を拒みます。モーセは、その要求が神からのものであることを示す奇跡を行いますが、エジプトの呪法師たちも同じ奇跡を行います。しかし、それが三度続き、四度目の「ぶよ」の奇跡に至ったては、「これは神の指」ですと言って、これは、全知全能の神さまの力であって、自分たちには到底真似ができないことを呪法師たちはパロに進言した史実に基づいています。                                       (銘形「ルカの福音書を味わう」から加筆して引用)

2016年5月15日日曜日

2016年05月15日 第3主日礼拝 三千人の新弟子たち

招詞
その後、わたしの霊を、すべての人に与える。その日には、男も女もわたしに仕える者たちに、わたしの霊を与える。
ヨエル書2章28~29節

聖書箇所
使徒の働き 2章1~22、40~47節

説教
三千人の新弟子たち 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ60/
「燃える炎のようなものが舌のような形をして、一人一人の上に降った。」     使徒の働き2章 3節
  本日、5月15日は、イースターから50日目で、120人のイエスの弟子たちの上に天から聖霊が下った日です。この春の季節、エルサレムには、過ぎ越しの祭り(十字架の日)、初穂の祭(復活の日)、そして、7週目の祭り(シャブオット)のために、世界中から「敬虔なユダヤ人たち」と改宗者が集まっていました(使徒2:5)。彼らは、ご聖霊に満たされたペテロの説教を聞き、心が洗われ、悔い改め、洗礼を受けました。この日を、教会の誕生日と呼ぶ理由です。「50」をさすギリシャ語の「ペンテコステ」と言う呼び名が多く用いられるようになりました。この主の教会に連なる者として、ご聖霊が私たちにも日々働いて助けてくださっています。自分だけの祝福に留まらず、私たちは、ご聖霊によって新たな力をいただき、日々、イエス・キリストの証人とし て生きることへと導かれます。

                                            (銘形「ペンテコステの様相」より一部引用)


2016年5月8日日曜日

2016年05月08日 第2主日礼拝 五旬節前夜の弟子たち

招詞
しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、 わたしの証人となります。          使徒の働き1章8節
                    
聖書箇所
使徒の働き  1章1~14節

説教
五旬節前夜の弟子たち 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ58/「イエスの友:イスカリオテでないユダ 」
このユダは、別名、タダイとも言われるイエスの弟子のひとりですが、彼の問いかけは、ヨハネ14:22にあります。「主よ。あなたは、私たち(弟子)にはご自身を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」ユダは、不信者にはどうしてご自身をはっきりとお示しにならないのか不思議に思ったようです。
 イエスの答えです。「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。」(16:23) ですから、「わたしの父がその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住む」ということをできなくしているのは、不信の人たち自身でしょう、という訳です。それゆえ、不信の世の人々には親しい愛のかかわりを現わすことができないことを暗に答えています。
 イエスの友となった者だけが、神さまとの愛の関わりを世に顕すことができるとは、なんと光栄でしかし、責任のある真理でしょうか。
                                            (銘形 イエスの友より一部抜粋)

2016年5月1日日曜日

2016年05月01日 第1主日礼拝 ぶどうの木の枝として

招詞
わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人のなかにとどまっているなら、そういう人は多くの実を結び ます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。                                             ヨハネの福音書 15章5節
                    
聖書箇所
ヨハネの福音書15章1~8節

説教
ぶどうの木の枝として 田口孝子師
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言(こと)ローグ57/「イエスの友 ピリポ」
「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足です。」 (ヨハネ14:8) 
  良い問いかけは偉大な真理を引き出しますが、このピリポの問いは、イエスを当惑させました。「ピリポ。こんなに長い間あなたがたといっしょにいるのに、あなたはわたしを知らなかったのですか。わたしを見た者は、父を見たのです。」(9節)。教会の時代になり、御子イエスのことばを読むことは、聞くことでもあります。聞くことは、御父のことばを聞くことです。御父と御子の間には永遠の愛が存在します。そのいのちの中に私たちを招くために、御子と御父は、今も私たちに語りかけて、かかわろうとしておられるのです。私たちは、この「いのちの招き」の中に入っていることを至福と感じているでしょうか? 
                                            (銘形「イエスの友」より一部引照)

2016年4月24日日曜日

2016年04月24日 第4主日礼拝 頭の上に手を置く

招詞
イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」                                  ヨハネの 福音書3章3節
                  
聖書箇所
レビ記 1章1~17節

説教
頭の上に手を置く 老松望KGK主事
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言(こと)ローグ56/「イエスの友人 ニコデモ 」
ニコデモは、律法の先生です。「イエスの行なったしるしを見て」、夜、こっそりイエスのもとを訪れました。ニコデモは、イエスが神のもとから来られた教師であることを知り、認めたのですが、それだけでは足りないのだとイエスから突き放されます。それは、「人は、新しく生まれなければ 神の国を見ることはできません。」(ヨハネ3章3節)でした。救いには、イエスを信じて、魂の生まれ変わりを経験することが必要です。ニコデモは、ここでの時点ではまだ友情は成立していなくて、ただ混乱しています。しかし、彼は、深く考える人で、また謙遜でした。
 ヨハネの福音書にはニコデモがイエスとの友情を結んだことがはっきりとわかる証が二つ記されています。ひとつはイエスを弁護したこと(7章)、もうひとつはイエスが十字架で死なれた後に墓に埋葬したことです(19章)。特に7章では、役人たちと、他のパリサイ派の仲間の前でイエスを弁護していますから、それ以来、白い眼で見られたはずです。私たちも、「イエスは、神の子キリストです。信じなければ救われません」、とクリスチャンでない友人たちに明言で きるでしょうか?              (銘形「イエスの友」より一部引照)

2016年4月17日日曜日

2016年04月17日 第3主日礼拝 あなたの目は開いていますか?

招詞
人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。                          詩篇8篇 4~5節  
聖書箇所
ヨハネの福音書 9章1~4節&24~41節

説教
あなたの目は開いていますか? 菅孝雄兄

言(こと)ローグ55/「イエスの弟子と友2」ナタナエル
「先生。あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」 (ヨハネ1:49)。ナタナエルは、初対面のイエスさまと2、3会話を交わした後で、この信仰告白をしています。会話の主体は、「見た、聞いた」でしたが、それで十分でした。クリスチャンとなった人は、自分が生まれながらにして罪人であり、霊的に盲人だったことを知った人です。目が開かれるためには、光が必要です。しかもその光は「まことの光」でなればなりません。上からの、天からの強烈な光でなければなりません。ナタナエルは、聖書の先生でしたが、謙遜な人でもありましたので、このプロセスをクリアして、イエスさまを神の子救い主と信じ、イエスさまの友となりました。私たちも、目が開かれ、「まことの光」であるイエスさまに出会った者たちですね。                                                  ( 銘形「主との友情を育む」より一部引用)

2016年4月10日日曜日

2016年04月10日 第2主日礼拝 歴史の中のすべての人にとって一番大事なこと

招詞
その義にふさわしく、【主】を、私はほめたたえよう。
いと高き方、【主】の御名をほめ歌おう。                                詩篇7篇17節
                    
聖書箇所
伝道者の書3章 11節
使徒の働き17章27節

説教
歴史の中のすべての人にとって一番大事なこと ジョン・ロビソン宣教師
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言(こと)ローグ53/「イエスの弟子と友1 アンデレとヨハネ 」
バプテスマのヨハネがふたりの弟子とともに立っていると、イエスが歩いて行かれるのを見ました。そしてすかさず叫びました。「見よ。世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)バプテスマのヨハネのこのことばに驚きと興味を示したふたりの弟子が、イエスについて行きます。一人は、アンデレで、もう一人は、後に、この福音書を記したヨハネ自身です。彼らは、イエスに尋ねます。「先生、今どこにお泊りですか。」イエスの答えは、「来なさい。そうすればわかります。」 短いやり取りですが、「来なさい」というイエスの招きのことばが、アンデレとヨハネの一生に決定的な方向づけをすることになりました。2人はイエスの弟子になり、しもべとして従いました。寝食をともにして3年目のある日、「わたしはもはや、あなたがたをしもべとは呼びません。わたしは、(今)あなたがたを友と呼びました。なぜなら父から聞いたことをみな、あなたが たに知らせたからです。」(ヨハネ15:5)アンデレとヨハネにとって、2度目の大きな驚きです。私たちも、福音書のイエスの言葉を読んでいて、自分に語られているように感じる、新鮮で嬉しい驚きを経験することがあるでしょうか?                                            ( 銘形「主との友情を育む」より一部引用)

2016年4月3日日曜日

2016年04月03日 第1主日礼拝 祈りの学校

招詞
「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。」                                                        マタイの福音書7章7~8節
                    
聖書箇所
ルカの福音書 11章1~13節

説教
祈りの学校 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ52/「あくまでも頼み続ける」
「彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。」(ルカ11:8)
 「アナイデイア」は、一語で「あくまでも頼み続ける」の意味です。それは、「厚かましさ、無恥、厚顔、図々しく、恥も外聞もなく」といった意味で、それほどに執拗であったがゆえに願いが聞かれたということが強調されています。それゆえ、この「たとえ話」の後に、イエスは「求めなさい(厳密には、「求め続けなさい」)。そうすれば、(必ず)与えられますと約束しています。捜し続ける、たたき続ける、そうするなら、必ず、与えられるのです。しかも、それによって得るものは最も良いもの、すなわち、「聖霊」を父は与えて下さると語っています。「聖霊」が与えられ、関与されることで、私たちに最も必要な霊的な糧が得られるからです。「聖霊が与えられること」と、「必要不可欠な霊的な糧が与えられること」とは同義なのです。私たちは、どれほど厚かましく祈り願っているでしょうか?                      (「ルカの福音書を味わう:銘形」より引用)

2016年3月27日日曜日

2016年03月27日 イースター・召天者記念礼拝

招詞
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。                     ヨハネの福音書 3章16節
                    
聖書箇所
マタイの福音書 28章1~10節

説教
イエスの死と復活 田口勇新牧師
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※音楽部特別賛美
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2016年3月20日日曜日

2016年03月20日 第3主日礼拝 復活は神の力による

招詞
罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。                                           ローマ人への手紙 6章23節
                    
聖書箇所
マルコの福音書 12章18~27節

説教
復活は神の力による ラジャー・オルソン牧師
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言(こと)ローグ51/「ゴルゴダの丘」
「彼らはイエスをゴルゴタの場所 (訳すと、『どくろ』の場所)へ連れて行った。それから、彼らは、イエスを十字架につけた。                                             (マルコ15:22、24)

エルサレムでは、罪人の死刑場は、どくろの場所、ヘブル語では、「ゴルゴダ」と呼ばれていました。「カルバリ」は、同じ意味を表すラテン語です。なぜ、こんな奇妙で冷酷な名前が付けられたかは確かにはわかっていません。ローマ法によれば、受刑者は、死後、埋葬されることなく放置されるのですが、ユダヤ人にとっては、それは非合法なことで、死体は日暮れには取り降ろされて、埋葬されなければなりませんでした。つまり、当時、この丘にどくろが散らばっていることなどありえなかったはずです。ですから、この名前は、丘の地形がどくろの形をしていたからではないか、と考えられています。いずれにしても、イエスさまは、全人類の罪を一身に負って、メシア(救い主)としてこの丘を登られ、十字架にかかられました、ローマの鞭で傷つき、血を流し、ひん死の状態で十字架にくぎ付けにされたのでした。25日の金曜日は、この十字架の金曜日です。イエスさまの痛みを覚え、私たちの罪を贖(あがな)ってくださったことに感謝する日として過ごしましょう。
                                     (銘形「イエスの最後の一週間」より一部引用)

2016年3月13日日曜日

2016年03月13日 第2主日礼拝 マリアの選択

招詞
私はいつも、私の前に【主】を置いた。【主】が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。
それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。              詩篇 16篇8~9節
                    
聖書箇所
ルカの福音書 10章38~42節

説教
マリアの選択 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ50/「姉妹(アデルフェー)」
「彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。」(ルカ10:39)マルタとマリヤ姉妹の有名なエピソードが、今朝のテキストでした。この妹と訳されているアデルフェーは、「姉妹」の意味で、姉か妹かという区別はありません。年上の姉妹なら姉、年下なら妹ですが、それだけでは、姉、妹と訳すのは無理があります。なぜ、マリヤを妹と訳したかは実は謎です。新共同訳は、「姉妹」です。英語訳などは全て「a sister(姉妹の単数形)」と訳していますが、新改訳では、アデルフェーは40節でも2回、マリヤのことをさして「妹」と訳されています。もし、ここを、マルタが妹、マリヤが姉と訳すとしたら、それも同じ確率で可能です。おもてなしが得意の妹マルタと、マルタを手伝わず、イエスのことばを一言も漏らすまいと聞く姉らしからぬマリヤです。マルタ妹が、「お姉さんはちっとも姉の役割を果たしていません。叱ってやってください、イエスさま」という話になります。そうだとしても、イエスさまの結論は同じです。「マルタ妹よ。マリヤ姉は、神のことばを聞きたくて、ここに座ったのだから邪魔してはいけない。あなたもここにきてお姉さんの隣で聴きなさい」ということでした。忙しい私たちも、「あなたも忙しくしていないで、座って私のことばを聞きなさい」とイエスさまのことばを聞くことがあるでしょうか?

2016年3月6日日曜日

2016年03月06日 第1主日礼拝 あなたの隣人は

招詞
心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する」ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。                 マルコの福音書 12章33節
                    
聖書箇所
ルカの福音書 10章25~37節

説教
あなたの隣人は 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ49/「深く憐れむ  スプランクニゾマイ」
「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い」(ルカ10:33)の 「かわいそうに思って」という感情は、イエスにのみ使われている語彙で、神の「深いあわれみ」をあらわす動詞「スプランクニゾマイ」です。他の箇所では、マタイ9:36、14:14、15:32、18:27、20:34、マルコ1:41、6:34、8:2、9:22、ルカ7:13、15:20に見ることができます。祭司は、レビ族から選ばれる世襲制でしたから、神の愛と赦しの儀式を代行していた人たちです。しかし、2人とも心を閉ざして、この哀れな人の横を過ぎて行きます。この人への愛は、自分のことは放り出して、「かわいそうに思い」かけよる愛であり助けるべき愛です。自分が損する愛、自己犠牲の愛です。そういう愛は、人は本来持ち合わせていません。この愛の源は、神の愛でなければなりません。この哀れな助けを必要とする人の横を通り抜けて行った人たちは、実地で神の愛を受け、人々の模範として神の愛を示す者でなければなりませんでした。しかし、「かわいそうに思う」心は、高ぶった人の心には存在しません。神の愛は、人が憐れみの心をもつための源泉であり、力です。神の愛を経験している者は、 サマリヤ人でも、敵視していたユダヤ人を助けることができます。ですから、イエスさまは、この律法の先生に「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:37)と、実地体験を勧めました。彼は、その試験にパスしたでしょうか。私たちは、試験に合格できるでしょうか。  (銘形 「律法の読み方」より一 部引用)

2016年2月28日日曜日

2016年02月28日 第4主日礼拝 知恵と信仰

招詞
【主】を恐れることは、知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。                                                      詩篇111篇10節
聖書箇所
ルカの福音書 10章21~24節

説教
知恵と信仰 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ48/「知恵 ハクマー」
「聖書は「知恵」を、「主(神)を恐れること」と定義しています。
「主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ」箴言1:7
 では「主(神)を恐れる」とはどういうことでしょうか。それは、裁きや呪いを恐れたり、地獄の存在に恐怖心を抱いたりといったたぐいの恐れではありません。そのような恐れは、人を束縛し、精神的な奴隷状態に閉じ込めます。「知恵」が感じる恐れとは、「畏怖の念」とでも言うべき恐れです。その実体は、人間を超越した大いなる存在に対する畏敬の念です。現代の日本では、人の価値は偏差値や業績などで計られる傾向があります。しかし聖書は、全く異なった基準で私たちを評価しています。その人がどれだけ誠実に人としての道を歩んでいるかどうか、そして彼(彼女)が、全能者であられる主なる神を信じ従って歩いているかが、主が人を評価する際の基準です。私たちは、全員この知恵(ハクマー)を持っていますね。

2016年2月21日日曜日

2016年02月21日 第3主日礼拝 70人弟子の派遣

招詞
神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。     ペテロの手紙第一 1章3節                    

聖書箇所
ルカの福音書 10章1~20節

説教
70人弟子の派遣 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ47/「平和(平安)エイレーネー」
「 どんな家に入っても、まず、『この家に平安があるように』と言いなさい。」(ルカの福音書10:5)
 平和(エイレーネー)は、新約聖書に93回も使われ、ルカ10:5の例のように「平安」と訳されることも多い、重要語です。人間どうしの平和に使われる他、神との平和の意味で用いられます。神との平和は、神との和解で成立します。この和解の使者として、メシア、イエスが地上に来られました。
 弟子たちが、「この家に平安(平和)があるように」と言って歩いたとき、神を信じない者、神との和解を望まない者は、弟子たちを受け入れませんでした。悲しいことに、主の民、ユダヤ人たちの中には、神の和解を受け入れない人たちも多くいたのでした。逆に、異邦人と呼ばれた非ユダヤ人の中に、神との和解を望む者たち、弟子たちを歓迎する人たちがいました。その人たちとその家には、神との平和による、祝福があふれました。2000年後の今も、和解の主、イエス・キリストを受け入れた人は、神との平和を持つ人で、心の中心にイエスさまを迎えた人です。その心には、平和があり、平安が湧き上がります。

2016年2月14日日曜日

2016年02月14日 第2主日礼拝 イエスの弟子道1

招詞
あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。                                                  ヨハネの福音書15章8~9節                    
聖書箇所
ルカの福音書 9章46~62節

説教
イエスの弟子道1 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ46/弟子 マセーテース
「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。」(ヨハネ8:31)
 「弟子」とは何でしょう。弟子と密接に関係する言葉に、御霊、従う、とどまる、愛があります。これらとの関係で「弟子」を見るならその意味がよくわかるでしょう。
 弟子(マセーテース)の原義は、「学ぶ者」という意味です。しかし、新約聖書には261回も使われていて、独自の用法をみることができます。12弟子、70人の弟子を含む大勢の弟子がいて、イエスの行くところどこにでもついていきました。しかし、「わたしを信じる者は、永遠のいのちを持つ」という教えをしたとき、弟子たちはつまづき離れて行きました(ヨハネ 6:60~66)。イエスのことばや教えに共感し、心酔するだけで、イエスの「いのち」に触れることのない人たちは去って行きました。イエスの弟子は、「御霊」によって主の「いのち」に触れ、それゆえにイエスに従い、とどまり、その結果「愛の実」を結ぶ者でした。私たちは、イエスの弟子として彼のいのちに触れて従っているでしょうか。        (米川明彦 新約聖書のキー ワードより引用)

2016年2月7日日曜日

2016年02月07日 第1主日礼拝 不信仰な今の世

招詞
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
ヘブル人への手紙12章2節

聖書箇所
ルカの福音書 9章37節~48節

説教
不信仰な今の世 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ45/「耳の中にことばを納める」
「このことばをしっかりと耳に入れておきなさい」(ルカ9章44節前半)は、原文では、「これらのことばを耳の中に納めなさい」です。
50年前の口語訳は、「耳におさめて置きなさい」ですから逐語訳です。意図するところは、「注意深く聞きなさい」です。
かわいそうな「ひとり息子」が悪霊にとり憑かれて、弟子たちが父親に頼まれましたが、悪霊を追い出すことができませんでした。それで、イエスが悪霊を叱りつけて、追い出し、いやされた息子を父親に返されたときのイエスことばでした。人々は神の威光に驚嘆し、唖然となっていましたが、イエスは、ため息をつかれたあとで、このことばを語られました。

あるとき、イエス自分の弟子たちにこう言いました。このことばも、原文は、複数形ですから、最近話した大事なこと、つまり、イエスがいよいよ十字架の道に向かうことを話した 内容をよく噛みしめて忘れないようにしなさい、と言われたわけです。なぜこのように念をおされたのでしょうか?

それは、イエスの十字架のことばは、弟子たちの心に、明瞭でリアルには入らなかったからではないかと思われます。まるで、おおいがかかっているように、はっきりと理解し、感じることができなかったのです。
弟子たちだけを責めることはできません。私たちも、聖書に書かれてあることで、知ってはいても明瞭でリアルな理解に及ばないことは沢山あります。「罪のあがない」、「キリストの再臨」などなどです。
パウロは、信じないユダヤ人の心には、おおいがかけられていると言っています((2コリ3:15)。しかし、「しかし、人が主に向くなら、そのおおいは取り除かれるのです。」(同16節)とも言っています。主に心を向けることで、神さまはおおいをとりのぞき、明瞭でリアルな信仰の世界へ招いてくださいます。
心を主に向けて歩きましょう。
(ルカ書注解:黒崎幸吉より一部引用)

2016年1月31日日曜日

2016年01月31日 第5主日礼拝 イエスの変貌

招詞
【主】の栄光が、とこしえにありますように。【主】がそのみわざを喜ばれますように。 私は生きているかぎり、【主】に歌い、いのちのあるかぎり、私の神にほめ歌を歌いましょう。             詩篇104篇31,33                    

聖書箇所
ルカの福音書 9章28~36節

説教
イエスの変貌 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ44/エクソダス(さいご最期の時)
「栄光のうちに現れて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」(ルカ9:31) この「ご最期」というギリシャ語は、エクソダスです。「出で行くこと、この世を去る」を意味します。新約聖書では3回使用さ れています(ルカ9:31、ヘブル11:22、ペテロ第二1:15)。旧約の「出エジプト」のことも英語で「エクソダス」Exodus と言います。「出エジプト記」の物語は、エジプトに移り住んだヤコブの子孫たちが神の民となるべく、神が彼らをエジ
プトの奴隷の境遇から救い出して自由の身としてくださった出来事ですが、その目的は彼らを神の民とするためでした。一方、新約時代における新しい「エクソダス」、つまり「出発」も、同じくイエスを王とする神の民の新しい出発です。当時、神の民であるイスラエルは、完全に霊的機能不全に陥っていました。そこにイエスさまがおいでになりました。このために、イエスは逃れることの出来ないこととして、「多くの苦しみを受け、捨てられ、殺されなければならない」必然があるのです。     (銘形「ルカの福音書を味わう」より引用)

2016年1月24日日曜日

2016年01月24日 第4主日礼拝 天の御国に入るために

招詞
主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。       詩篇 8篇 1~2節                       

聖書箇所
ルカ の福音書 9章22~27節

説教
天の御国に入るために 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ43/天の御国の奥義 (ミステリオン)
「この恵みを、神は私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。」エペソ1:8~9 。ここで、「奥義」と訳された原語は「ミステリオン」で、神の秘められたご計画を意味します。これは「天の御国の奥義」でイエスはいろいろな例えをもって弟子たちや人々に語られました。神の秘密は自ら求めることがなければ秘密のままですが、「求める(求め続ける)」ならば、だれにでも「与えられ、見出し、開かれる」のです。使徒パウロは神の秘密(奥義)を求めたことで知らされたのです。パウロのヘブル名は「サウル」 ですが、「サウル」という名前は「尋ね求める」という意味です。そのパウロが「奥義をぜひ知ってほしい」と声を大にしているのです。私たちはイエスさまを信じた時から、天の御国の奥義(ミステ オン)の不思議の世界に足を踏み入れています。「知らされている」と書いてあるように、イエスさまや聖書記者たちによってすでに明らかにされたものもあれば、まだ開かれていない不思議もあります。そして、森や山にではなく、別の宗教や思想の中にではなく、また心理学の研究の中にでもなく、聖書のみ言葉のなかにこの奥義が隠されています。パウロのように、この奥義を見つけてみ言葉の深みを経験していきましょう。
(銘形  エペソ書の瞑想より一部転載)   

2016年1月17日日曜日

2016年01月17日 第3主日礼拝 イエスはどなたか

招詞
あなたがたは、世界の光です。あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。          マタイの福音書5章14、16節
                       
聖書箇所
ルカ の福音書 9章18~21節

説教
イエスはどなたか 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ42/平和(シャローム)を作り出すこと
平和を作りだすことと平和を語ることは違います。今日、平和を作ることに対することとして、テロ、暴力、犯罪、戦争、貧困が最も重要な問題となっています。2000年前の世界でも、平和を作る努力に対し、暴力、犯罪、戦争、病気、貧困が人々を苦しめていました。イエスは、「 彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。」(イザヤ53:3)と預言されていましたが、このような現実の問題にルカの福音書と使徒の働きが焦点をあてているようにも見えますが、そこには武力を使った復讐や報復の原理とは異なる平和作りが解き明かされています。天使たちによる賛歌の「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」(2章14節) は、クリスチャンたちが、いつも唱えていたい祈りであり、出発点です。平和を作り出すことは、教会の宣教の重要なメッセージです。使徒の働き10章36節 にも「神がイエス・キリストによって平和を告げ知らせ」と記されています。イエスに従う者の心には復讐が入り込む余地はありません。それは、イエスが自分を十字架につけた者のために祈った祈り(23章 34節)の記事、また、殉教で死んでいくステパノの祈り(使徒7章60節)にも反映しています。平和(シャローム)を作る者たちは、まず自分の心にある妬み心や復讐心を神さまから取り除いていただければなりません。ご聖霊がなしてくださる業ですが、私たちも心の奥底の扉を開けることが必要です。
                                      (銘形 ルカの福音書の神学から一部引用)

2016年1月10日日曜日

2016年01月10日 第2主日礼拝 退修と奉仕

招詞
知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
                                                詩篇100篇3節                       
聖書箇所
ルカの福音書 9章7~17節

説教
退修と奉仕 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ41/退修会(リトリート)と修養会
退修会と修養会はどう違うのでしょうか。ある説明には、「退修会とは、日常業務からしばらく退いて、祈り、学びあう修養会のことです。」とありました。本当にそうなら、退修会と呼ぶよりも、普通に修養会とか教会研修会のほうがわかり易いかな、と思います。退修(リトリート)は、もともとは軍隊用語で、日常の任務を離れ、研修のような知的な学習からも離れ、自然に囲まれたところで、スポーツを含めて心をリラックスさせる時、と定義されるようです。米軍などでは、強制的にリトリートの場に送られるようです。もちろん、個人の休暇とは別に取ります。
 教会の退修会の場合、「日常の義務からしばらく退いて、祈り、聖書を読み、神さまとみことばを瞑想し、また分かち合う時」と言えると思います。 せっかく2~3日もとって集まるのだから、◎◎先生をお呼びして学びましょう、となりやすいのは日本人クリスチャンだけではありません。現代病といわれる症状は、何かして結果を出す、蓄積する、と考えることでょう。生産性(プロダクティビティ)がいつでも優先にされます。つまり行動 (DO ドゥ)と結果第一主義です。
 イエスさまの退修は、奉仕を離れて、静かなところで、神と交わる(祈る)ことでした。行動に対して、神の子「である」 BE(ビー)であることを楽しまれました。クリスチャンもまた、聖書を読み、神の子となった自分を見つめ、神さまを考え(瞑想)る者です。
 DO(ドゥ)が活動する動詞と呼ばれるのに対し、「である」 は、状態動詞とも呼ばれます。私たちは、クリスチャンとして奉仕や何かする前に、神の子となっている事実(状態)を意識的に感謝できる環境に自分を置くことが重要です。そうでないと、行動ばかりで、奉仕疲れが出て、燃え尽きてしまうこともあります。人を批判的に見てしまうのも、行動型の人の弱点です。ルカの福音書10:41~42に、マルタとマリヤ姉妹のことが記されています。マリヤは、怠け者ではなかったでしょうが、周りが弟子たちでガヤガヤしていても、主の前に座り、静まって主のみことばに傾聴できる「特技」をもっていました。まるで姉のマルタとともに接待するのを忘れたかのようでした。「傾聴力」です。私たちも、傾聴力を磨き、日常生活の中で、イエスさまのことば、聖書のことばに傾聴し、瞑想できるスポットを見つける工夫が必要かと思います。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」(同42節)

2016年1月3日日曜日

2016年01月03日 第1主日礼拝 イエスの力と権威が

招詞
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っています。そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。
                                           コロサイ人への手紙 2章9~10節
                       
聖書箇所
ルカの福音書 9章1~6節

説教
イエスの力と権威が 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ40/平和(シャローム)
昨年、「武力で敵を負かして平和を」というのが、対テロ戦争の名目になりました。しかし、武力による平和は、長続きしないことは誰でも知っています。 2000年前、天使の集団が「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、 平和が、御心にかなう人々にあるように。」(ルカ2章14節) と賛美した中にも、「平和」ということばがあります。
 現在も、神との平和を伝えることは、教会の宣教の重要なメッセージです。イエスの与える平和は、ローマ帝国の軍事力によって達成した「平和」とは無関係です。イエスの場合、悪に対する非暴力によって、愛によって作り出される平和でした。それこそが、今日でも、この世における教会の果たすべき役割なのです。
 そのためには、私たちの様々な領域における障壁(バリア)が取り払われることが必要でした。イエスの誕生の時に、「地の人」と軽蔑されていた羊飼いたちが最初の礼拝者でした。これは、階級的バリアへの挑戦でした。また、彼らの活躍 (ルカ2:17~20)は、富める人と貧しい人の障がいである、経済的バリアも取り去られました。
 イエスは、サマリヤの女の回心を助けられ(ヨハネ4章)、人種的・宗教的なバリアを除かれました。次に、エルサレムとガリラヤを行き来されながら、使徒たちを育成訓練し、エルサレム教会がスタートするための道備え(インフラ整備)をなさり、地域的バリアを除くことに成功されました。
 このように、宣教の障がいとなる4つのバリアを取り払って下さった方が、救い主イエスでもあられました。                                         (銘形 「ルカの福音書の神学」から引用)

2016年01月01日 元旦礼拝 主があなたを守られる

招詞
心を尽くして【主】に拠り頼め。自分の悟りにたよるな。 あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道を まっすぐにされる。                             箴言3章5~6節
                      
聖書箇所
詩篇121編

説教
主があなたを守られる 田口勇新牧師
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