2016年10月30日日曜日

2016年10月30日 第5主日礼拝 捨てることで

招詞
【主】よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。あなたは私の歩みと私の伏すのを見守り、私の道をことごとく知っておられます。                          詩篇139篇1、3節

聖書箇所
ルカの福音書 18章18~30節

説教
捨てることで 田口勇新牧師

言(こと)ローグ82/骨(エツェム)
「穏やかな心は、からだのいのち。激しい思いは骨をむしばむ。」           箴言14章30節
 心臓(こころ)と腎臓(思い)に続いて、今回は、骨(エツェム)です。
骨は、聖書では、人間の全存在を表す「比ゆ」として使われます。上掲の箴言は、からだの「いのち」と平行法で言い直されています。神からくる穏やかな心だけが、人の全存在を安らかにしてくれます。この用法は、旧約の知恵文学と呼ばれる、ヨブ記、詩篇、箴言、伝道者の書などに多く見られます。
・「サタンは主に答えて言った。『・・・彼(ヨブ)の骨と肉とを打ってください。彼はきっと、あなたをのろうに違いありません。』」(ヨブ 2 ; 4, 5)
・「私に、楽しみと喜びを聞かせてください。そうすれば、あなたがお砕きになった骨が、喜ぶことでしょう。」(詩篇 51:8)
・「あなたは妊婦の胎内の骨々のことと同様、風の道がどのようなものかを知らない。」(伝道者の書 11:5)
 詩篇 51篇は、ダビデが王になってから犯してしまったバテ・シェバ事件(2サムエル11~12章)の後で、歌われたものです。主は、預言者ナタンを遣わし、彼の「骨(良心)」を激しく攻めました。ダビデは、彼の言葉と主の罰を受け入れて赦されました。この詩は、彼の骨(全存在)に平安が戻った時の詩です。私たちも骨(こころ)が痛む時、主がこれを癒してくださることを信じましょう。しばしば、私たちの骨(こころ)は、主によって砕かれなければならないでしょう。ペチャンコにされても、終わりの状態ではなく、主を喜ぶ文字通り砕かれたこころの状態に変えていただいた姿です。主に近づきましょう。 (銘形「詩篇の修辞的表現」より引用)

2016年10月23日日曜日

2016年10月23日 第4主日礼拝 へりくだって

招詞
正しい神は、心と思いを調べられます。私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。
                                   詩篇 7篇9~10節

聖書箇所
ルカの福音書18章9~17節

説教
へりくだって 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ81/腎臓(キルヤー) 
正しい神は、「心と思い」を調べられます。                                           詩篇7編9節

 「心」と訳されているへブル語「レーブ」は心臓で、悟る心で知的な理解に重きがありました。これに対して、情緒的な意味合いをもつことばは「思い」と訳されている「キルヤー」です。
 「キルヤー」は、いけにえとなる動物(牛や羊、山羊)の腎臓という意味で、出エジプト記(29:13, 22)、レビ記(3:4ほか)などで使われています。腎臓は人の内奥にある感情を司る器官と考えられていたようなので、比喩的な用法では、「思い」と訳されています。
 この「キルヤー」は最も深い情動の座を意味することばで、詩篇 7:9、16:7、26:2、73:21にも使われています。訳語では「キルヤー」が「思い、心、内なる思い」(新改訳の場合)と訳されています。ほかの聖書箇所としては、箴言 23:16、エレミヤ書11:20、12:2、17:10、20:12、哀歌 3:13などです。
 「正しい神は、心と思いを調べられます。」(7:9)の「調べる」とは「テストされる」です。しかし、これは、落第させるためのテストではありません。神さまは、私たちをご自身に近づけてくださるために点検してくださるのです。感謝しつつ心を開いて神さまに信頼しましょう。
                                (銘形「詩篇の修辞」から引用)

2016年10月16日日曜日

2016年10月16日 第3主日礼拝 まして私の神は

招詞
私は心を尽くして主に感謝します。 あなたの奇しいわざを余すことなく語り告げます。 私は、あなたを喜び、誇ります。                                 詩篇9篇1~2節

聖書箇所
ルカの福音書18章1~8節

説教
まして私の神は 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ80/心臓(レーブ)
正しい神は、「心と思い」を調べられます。                     詩篇7篇9節
 
「心」と訳されているヘブル語は「レーブ」です。「心臓」を意味します。しかしその意味するところは、私たち日本人が考えるところの「心」とは 違っています。旧約聖書でいう「レーブ」の意味の第一は、情緒ではなく、理解力を意味します。耳の働きは聞くことで、目の働きは見ることですが、 心(レーブ)の働きは理解すること、つまり「悟る」ことです。確かに、日本語の「心」は、知性、感情、意志のすべての働きを意味していますが、ど ちらかといえば、情緒に重きが置かれるような気がします。しかしヘブル語の「レーブ」は、むしろ知性と意志の働きと強くかかわります。
 「レーブ」は理性だけでなく、意志の働きとも深くかかわっています。詩篇24篇3節、4節の「だれが、主の山に登りえようか。だれがその聖なる所に 立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者・・・」とあります。「手がきよい者」とは、悪事を行なわない人という 意味ですが、「心がきよらかな者」とは、悪事を意図しない人のことです。つまり、聖所に立てる者とは、悪を行なわないだけでなく、それを意図した り、計画したりしない人という意味です。ご聖霊の助けにより、心がきよらかな者にさせていただきましょう。
                               (銘形  「詩篇の修辞」から引用)

2016年10月9日日曜日

2016年10月09日 第2主日礼拝 いのちより大切なもの

招詞
【主】よ。どうか、あなたの御顔の光を、私たちの上に照らしてください。 あなたは私の心に喜びを下さいました。                                    詩篇4篇6~7節

聖書箇所
マタイの福音書16章24~27節

説教
いのちより大切なもの 斎藤 満師
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言(こと)ローグ79/身を避ける(ハーサー)
「 幸いなことよ。すべて主に身を避ける人は。 」                  詩篇2編12b節

 身を避ける」と訳された「ハーサー」 は、他に、「声を上げない」「静まる」「沈黙する」「無言」、といったことばでも訳されています。この詩2篇は、まさに神に対する勢力が「騒ぎ立ち」「空しくつぶやき」「立ち構える」状況に対して、神が御子イエスによって、彼らを打ち破るという神の救いの計画の全貌が預言的に語られている詩篇です。そうした文脈の中での「身を避ける」とは、どんな環境や状況に置かれることがあっても、主の信頼によるゆるぐことのない平安、落ち着き、沈黙が与えられることです。
 ガリラヤ湖で、イエスの弟子たちが舟で向こう岸に渡ろうとしたときに、突然襲った突風で、今にも舟が沈みそうな恐れの中で弟子たちは、主イエスに「なんとも思わないのですか」とその恐れをぶちまけています。しかしそのときイエスはなんと眠っておられました。これは御子イエス が御父に「身を避けて」おられたからです。
 神の子とされた私たちクリスチャンのこの世の務めは、何よりも主を信頼することです。いろいろな人生のチャレンジに向かいますが、イエスが「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」(ヨハネ15:5)と言われたように、「主に身を避ける」ことを学ぶことなしに、私たちがなし得るものは何一つないこと を、心に深く刻みつけたいと思います。            (銘型 「詩篇原典の瞑想」より引用)

2016年10月2日日曜日

2016年10月02日 第1主日礼拝 神様の計り知れない赦し

招詞
イエスは言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」                         ヨハネの福音書14章6節

聖書箇所
マタイの福音書18章21~35節

説教
神様の計り知れない赦し ロビソン・ディビット師
言(こと)ローグ78/「口ずさむ」 ハー ガー
「まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。」         詩篇1篇2節

 「口ずさむ」(あるいは「思い巡らす」(英訳meditate)と訳されている「ハー ガー」旧約で25回、そのうち詩篇では10回使われています。その意味は、「うめく」「つぶやく」「声を出す」「さ さやく」「親しく語る」「考える」「思う」です。旧約の詩人にとって、神とそのみことば、あるいは御業は口を用いて言い表すことに直結さ れていたようです。口語訳では「思う」と訳されていた「ハーガー」を、新改訳、新共同訳で「口ずさむ」と訳しているのは原意に近づけたものと思われます。ちなみに、バルバロ訳では「瞑想し」典礼訳では「心に留める」と訳されています。
 「主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ」者こそ幸いなことだとするこの詩篇の第1篇は、詩篇全体を読み解く大切な鍵とも言える詩篇だと言えます。というのも、詩篇はもともと神の御前での瞑想によって生まれたものであり、それが書き記され編纂された目的は 神の民が瞑想に用いることができるためでした。それゆえ、詩篇は今日に至るまで瞑想の祈りの源泉となっています。
                                            (銘形 「詩篇の世界」 より引用)