2023年5月27日土曜日

2023年05月28日 ペンテコステ礼拝 教会のはじめ

招詞
 私はいつも、主を前にしています。主が私の右におられるので、私は揺るがされることがありません。それゆえ、私の心は喜び、私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。
                                   詩篇16篇8~9節

聖書箇所
使徒の働き2章1~47

説教
教会のはじめ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/493 断食と宣教
 彼ら(預言者や教師たち)が主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「さあ、わたしのためにバルナバとサウロを聖別して、わたしが召した働きに就かせなさい」と言われた。そこで彼らは、断食して祈り、二人の上に手を置いてから、送り出した。       使徒の働き13章2~3節

 


シリアのアンテオケ教会が、パウロとバルナバを第一次伝道旅行に送り出したことが記されています。アンテオケ教会の設立は初代教会における一つの転換期で、ステパノの殉教から起こった迫害によって散らされた人々は、エルサレムから追い出されることを余儀なくされました。主からの新しいビジョン=世界宣教の啓示は、アンテオケ教会における礼拝と断食と祈りによって受けとめられました。現在のトルコ南西部へのこの第一次伝道旅行において、パウロとバルナバは福音を宣べ伝えて、ユダヤ人たちの迫害にもめげず、多くの弟子が与えられました。彼らはルステラ、イコニオム、デルベの町ごとに、長老たちを選び、断食をして祈って後、信じた人々を主にゆだねて、アンテオケに戻っています(使徒の働き1423節)。次回は断食の真意を探ります。
                              (銘形「断食」より一部引用)

2023年5月21日日曜日

2023年05月21日 第3主日礼拝 キリストの昇天

招詞
 私はあなたの恵みに拠り頼みます。私の心はあなたの救いを喜びます。私は主に歌を歌います。主が私に良くしてくださいましたから。                 詩篇13篇5~6節

聖書箇所
使徒の働き1章3~14

説教
キリストの昇天 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/492 サプリメントではなく
  私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。        マタイの福音書6章11節

 普通に読めば、私たちが毎日、口にする「日ごとの食物」に言及する大切な祈りです。しかし、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)をはじめ、山上の説教の流れをみるとそれだけではないことに気が付きます。マタイ6:31~33を見ても、文脈から、イエスの教えのもう一つの意味は、御国に入る者たちが毎日食べる霊的糧ととることができます。
マタイ4:4に照らすと「私たちの日ごとの糧」とは、「神が私たちに定めておられる必要な神のことば」のことです。霊的なサプリメントとして「私が食べたい神のことば」ではなく、神の永遠のご計画において「神から受けるべきものとして定められている必要不可欠なことば」なのです。それは、私たちクリスチャンが、日々生きるためにどうしても必要なパン(神のことば、神の教え)であり、おそらく「堅い食物」です。「乳ばかり飲んでいる幼子」とは違って、この「堅い食物」は、大人の物です(1コリント3:2)。
「乳を飲んでいる者はみな、義の教えに通じてはいません。幼子なのです。堅い食物は、善と悪を見分ける感覚を経験によって訓練された大人のものです。」(ヘブル 5:12~13)。進んでまんべんなく聖書を学び、「よく噛んで味わい」、分かち合うことを習慣とし、喜びとしたいものです。 
                            (銘形「主の祈り」より一部引用)

2023年5月14日日曜日

2023年05月14日 第2主日礼拝 教会のチャレンジ ⑥ エルサレム会議

招詞
 心を尽くして主に感謝をささげます。あなたの奇しいみわざのすべてを語り告げます。私はあなたを喜び、誇ります。いと高き方よ、あなたの御名をほめ歌います。     詩篇9篇1~2節

聖書箇所
使徒の働き15章1~31

説教
教会のチャレンジ ⑥エルサレム会議 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/491 罪の赦し②
 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。」 
                                マタイの福音書6章12節

 前回、神に対する負債、負いめ、的外れな罪を完全に赦されたことを正しく受け止めことと、自分に対して負い目のある者、あるいは自分に対して悪いことをした者を赦すこととが同義的な関係にあると書きました。それゆえ、私たちは、「私たちの罪(負い目)をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある人たちをみな赦します。」という祈りをする必要があります。しかも、赦すことは間髪を置かず、すかさず赦すことが必要です。日ごとに私たちが神からの無条件の赦しを受けていることを絶えず意識しながら生きるために、この祈りはとても重要な祈りと言えます。
主人(王)のあわれみによって膨大な負債を帳消しにしてもらったしもべ、そのしもべが自分から借り (自分が帳消しにされた負債から比べるならば、ごくわずかな負債) のある者を赦さなかったことが王に知られ、怒った王が、借金を返すまで彼を牢に投げ入れたというイエスのたとえ話(マタイ18:21~35)にあるように、私たちもそのような事態になることが多々あるからです。また、この祈りは神の子とされた者が、「平和を作る者(ピース・メーカー)となる」ための土台石の役割を持つと考えられます。神の子としてのチャレンジは続きますね。(銘形「主の祈り」より一部引用)
 
 

2023年5月5日金曜日

2023年05月07日 第1主日礼拝 花婿キリストの備え

招詞
 主よ、あなたの指のわざである天、あなたが整えられた月や星を見るに、人とは、何者なのでしょう。あなたが心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みてくださるとは。                               詩篇8篇3~4節

聖書箇所
ヨハネの福音書14章1~4

説教
花婿キリストの備え 佐藤弘司師(DVD)

言(こと)ローグ/490 罪の赦し①
 「私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある者たちを赦しました。」
                                マタイの福音書6章12節
「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者たちをみな赦します。」 
                                 ルカの福音書11章4節

 マタイとルカのテキストには微妙な違いが三つ見られます。①一つは、マタイの「負いめ」はルカでは「罪」ということばになっていること。②二つ目は、マタイの「赦しました」という表現が、ルカでは「赦します」(赦している)となっていることです。③そして三つ目は、ルカにはマタイにない「みな(皆)」ということばが入っているということです。しかし、これらの違いはこの祈りを理解する上で妨げとはなりません。むしろ、その違いを相補的に理解することが賢明です。パウロ「互いに赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。」(コロサイ3:13)と述べているように。あくまでも神の恵みによる無条件の赦しが大前提としてあり、その前提に立って、他の人を赦すべきことを勧めています。神の無条件の赦しが先行しています。ではなぜ、「私たちの罪(負いめ)をお赦しください。」と特に祈る(願う)必要があるのでしょうか。それは、神からの赦しと人を赦すことの密接な関係を正しく保つことが必ずしも容易ではないからです。赦しには、理屈とともに感情が伴います。だれにとってもチャレンジですね。 
                           (銘形「主の祈り」より一部引用)