2018年2月25日日曜日

2018年02月25日 第4主日礼拝 福音と生活 / 旧約聖書と福音

招詞
神よ。私の心はゆるぎません。私は歌い、私のたましいもまた、ほめ歌を歌いましょう。
                                    詩篇108篇1節

聖書箇所
コロサイ人への手紙 1章13~14節

説教
福音と生活 銭谷幸器牧師
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旧約聖書と福音 銭谷幸器牧師
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言(こと)ローグ/227 詩篇に見る比喩 ①類比(アナロジー)
 
【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。                            詩篇23篇

 有名な詩篇23篇で、ダビデは比喩を使って、神と自分の関係を見事に描いています。比喩は、並行法と同じく聖書に見られる大事な修辞法です。
 比喩には、類比、隠喩、直喩、換喩、提喩の5つがありますので順にご説明しますが、上記の詩は、類比(アナロジー)です。類比は、ある事柄やかかわりを別の事物のイメージで類推する修辞法です。この詩23篇の前半では、羊飼い(牧者)と羊という類比を用いて神と私たちとの関係を表現しています。また後半では、客と客を招く主人という類比によって、私たちをもてなす神の歓迎を簡潔に表現しています。
 主なる神さまが、あらゆる手法で神の愛を伝えようとなさっていることを感謝し、この神の愛を熱心・簡潔に伝えてまいりましょう。
                           (銘形「詩篇アラカルト」より引用)

2018年2月18日日曜日

2018年02月18日 第3主日礼拝 私たちに働くみ力

招詞
主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。 まことに主は渇いたたましいを満ち足らせ、飢えたたましいを良いもので満たされた。            詩篇107篇8~9節

聖書箇所
エペソ人への手紙3章20~4章1節

説教
私たちに働くみ力  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/226  詩篇の並行法 ② 反意型
 まことに、主は、正しい者の道を知っておられる。 しかし、悪者の道は滅びうせる。
                                    詩篇 1章4節

 同義並行法に続き、反意型並行法があります。これは、上記、詩篇1:4のように、1行目と2行目の思想が対照をなしています。相互が矛盾するのではなく、真理の両面を相補する表現方法で、詩の意図が増幅されて伝えられます。次の4つのカ所は、反意型並行法です。ゆっくり読んで、味わってください。 

 ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。 
    しかし、私たちは私たちの神、【主】の御名を誇ろう。       詩篇20:7

 悪者には心の痛みが多い。 
    しかし、【主】に信頼する者には、恵みが、その人を取り囲む。   詩篇32:10
 
 若い獅子も乏しくなって飢える。 
    しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。 詩篇34:10

 悪を行う者は断ち切られる。 
    しかし【主】を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう。        詩篇 37:9  
 
反意型並行法により、神の愛の深さと誠実が、何倍にも増幅されて読む人の心に伝わってきますね。                      (銘形「詩篇アラカルト」より一部引用) 

2018年2月11日日曜日

2018年02月11日 第2主日礼拝 とりなしの祈り

招詞
ハレルヤ。【主】に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。その恵みはとこしえまで。 だれが【主】の大能のわざを告げ、主の誉れのすべてを語り聞かせることができよう。 
                                 詩篇106篇1~2節

聖書箇所
エペソ人への手紙3章16~19節

説教
とりなしの祈り  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/225 詩篇の並行法(パラレリズム)① 
 まことに、その人は主の教えを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。  詩篇1篇2節

   R・ロウスは、『ヘブル語の聖書の詩についての講義』で、詩篇は、音声と文体が比較的穏やかに結びついて感性を表現している書である、と言いました。この並行法(パラレリズム)と呼ばれる手法は、行ごとの思想内容の対応により、思想は繰り返されることもあるし前進することもあります。また比喩的でもあるし、逆転的でもあります。今回は、①繰り返される思想について述べます。
 実は、上記2節も一行目と2行目が、同じ意味の事柄を異なる言葉で繰り返えしています。これが、同義並行法です。次の、5節はどうでしょうか?

それゆえ、悪者はもさばきの中に立ちおおせず、罪人は、正しい者のつどいに立てない。 (1:5)
 
 やはり、意味が似ていることばで繰り返されていますね。2章4節はどうでしょうか?

天の御座は着いている方は笑い、主はその者どもをあざけられる。 (2:4)
 
天のみ座は、神、主のおられる所です。笑うとあざけるは同じ意味です。原語のヘブライ語では韻を踏むので、さらに印象的で、また暗記しやすいのです。詩篇の朗読は朗誦となり歌です。
 しかし、翻訳であっても、並行法は、私たち読む者の心に聖書のみことばの真理を鮮明に刻み込むために有効な表現法です。ゆっくり読み、繰り返し読み、詩篇を味わって読みましょう。
                         (鍋谷尭爾著『詩篇を味わう』より引用)

2018年2月4日日曜日

2018年02月04日 第1主日礼拝 ひざをかがめて祈る

招詞
主の聖なる名を誇りとせよ。主を慕い求める者の心を喜ばせよ。主とその御力を尋ね求めよ。絶えず御顔を慕い求めよ。                        詩篇105篇3~4節

聖書箇所
エペソ人への手紙3章14~15節
第2歴代誌7章3節

説教
ひざをかがめて祈る  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/224 パンとぶどう酒(アルトスとクラシ) 

「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」 食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」                ルカの福音書22章19~20節

 毎月の聖餐式で、パンとブドウ液をいただきます。イエスさまが、使徒たちと教会に命じられた2つのことの一つが聖餐で、あと一つは洗礼でした。洗礼は一回だけですが、聖餐式は、イエスさまの再臨までずっと定期的に続けなさい、と言われました。 
 カトリック教会では、パンとぶどう酒が、文字通りキリストの体と血に変わると教えます。これを化体説(けたいせつ)と言います。改革者ツヴィングリは、これとは真逆で、単純にシンボルとしてパンとぶどう酒を受け取ると教えました。
 けれども、ルター以来、ルーテル教会では、聖餐におけるパンとぶどう液(酒)は、上記イエスの言葉通り、キリストの体と血を表すと教えます。以下、神秘的な言い方ですが、「パンとぶどう酒は、やはりパンとぶどう酒であるが、聖餐式で読まれるみ言葉に従う時、パンを食べ、ぶどう液(酒)を飲むことにより、イエスのからだと血をいただくのである」と信じています。 
 初代教会での聖餐は、礼拝の一部であり、感謝、喜び、信仰によって特徴づけられていました。そこでは、信仰の自己吟味と悔い改めは、心を刺すような重苦しいものではなく、赦しと永遠の命の約束が唱えられ、神からの贈り物、イエスに対する心からの感謝と賛美が中心でした。そこには勝利と喜びがありました。私たちも、心からの感謝と喜びをもって聖餐をいただきましょう。
                    (C.F.ヴィスロフ「キリスト教教理入門」から引用)