2019年1月13日日曜日

2019年01月13日 第2主日礼拝 平和の福音の備えを

招詞
 光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために。正しい者たち。【主】にあって喜べ。その聖なる御名に感謝せよ。       詩篇97篇11~12節

聖書箇所
エペソ人への手紙6章11~15節

説教
平和の福音の備えを  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/269 ラーアー(羊飼い)②

 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。                    ペテロ第一2章25節
 
 前回は、ダビデが歌った詩篇23篇1節の「主は私の羊飼い」という信仰告白をみました。主は、困難や危険な場でも、良い羊飼いのように親身になって私をケアしてくれるのです。
 さて、上記、ペテロ第一2章25節を見ると、イエス様の弟子ペテロは、イエスは、私たち一人ひとりのたましいの牧者であり監督者であると言っています。同時に人間は、迷っていた羊だと告白しています。
 羊は、神に背き異教の教えに迷っていった人間そのものの特性をもつ家畜として聖書にしばしば登場します。そんな呆れるほど迷いやすい私たちでも「主は私の羊飼い」という告白により、主が自分の魂の牧者で、私がその世話を受ける羊だと告白していることになります。
 紀元前8世紀、イスラエル(ユダ王国)で王たちに仕えながら、王を恐れることもなく神のメッセージを「直球」で語った預言者イザヤは、「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべのて咎を彼に負わせた。」(イザヤ書53章6節)と語り、700年後のメシア、イエス・キリストの来臨をも預言しました。ここでも人間は羊のように頑固でやっかいな存在である、という主の「ため息」が聞こえます。しかし、ダビデが敵に追われ、恥ずかしい思いをした経験の中でも、次の告白があるのは、驚くべきことです。
 「主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。」                                   詩篇34篇9~10節
 
 2019年を歩み始めた私たちはどうでしょうか?この詩篇の作者の上を向いて、真摯(しんし)に「主を尋ね求める者は、良いもので満たされる」という信仰告白は、イエスを通して天地創造の神である主(ヤーヴェ)を知りえたクリスチャンたちの勝利の歌となるのではないでしょうか。                    (銘形「ヘブル語デシリーブレッド」から引用)