2024年12月29日日曜日

2024年12月29日 第5主日礼拝 メシア預言の踏みなおし

招詞
 私は切に、主を待ち望んだ。主は私に耳を傾け、助けを求める叫びを聞いてくださった。滅びの穴から、泥沼から、主は私を引き上げてくださった。私の足を巌(いわお)に立たせ、私の歩みを確かにされた。                            詩篇40篇1~2節

聖書箇所
ルカの福音書2章21

説教
メシア預言の踏みなおし 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/572 古いものを取り除く

 新しいこねた粉のままでいられるように、古いパン種をすっかり取り除きなさい。あなたがたは種なしパンなのですから。私たちの過越の子羊キリストは、すでにほふられたのです。
                             コリント人への手紙第一5章7節

 中国系の人たちは、新年を祝う前に家の大掃除を念入りにします。中国には、「12月28日にホコリを洗い流せ」という格言があります。大掃除は、ゆく年の不運を洗い流して、くる年には幸運を呼び込もうとする準備です。人々はこう信じているので、この伝統を守っています。
 一方、使徒パウロはコリントのクリスチャンに手紙を書いて、「古いパン種を取り除きなさい」(Ⅰコリ5:7)と人生の大掃除をするように促しましたが、それは幸運を呼び込むためではなく、神に喜んでいただくためでした。私たちの罪のために十字架にかかってくださったイエスさまに感謝するので、私たちは自分の生活から罪を一掃したいと願います。そして、このお方だけがくださる聖さを祝うことができます。さあ、古いパン種をすっかり除きましょう。 
                 (M. ウィリアムズ 「古いものを取り除く)から一部引用)

2024年12月21日土曜日

2024年12月22日 クリスマス礼拝 アドベント第4 なぜ羊飼いたちに

招詞
 この方(イエス・キリスト)にいのちがあった。このいのちは人の光であった。光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。            ヨハネの福音書1章4~5節

聖書箇所
ルカの福音書2章1~20

説教
なぜ羊飼いたちに 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/571 死に勝った方、イエス

 この時、「死は完全に敗北させられた」という旧約聖書のイザヤ(25:8)の預言が実現する。 「死よ。お前の勝利はどこにあるのか。死よ。お前の力はどこへ行ったのか」というホセア(13:14)の預言も実現する。    コリント人教会への手紙 第一 15章54~55節 現代訳

 羊飼いが聞いたメシア誕生の知らせは、国境を越え、世界中の人々に伝えられました。キリストの降誕は、「死」の終焉の始まりでした。神に感謝すべきです。「神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました」と聖書は述べています。これが、私たちがクリスマスを祝う理由です。キリストの降誕は人類のもとに神を来たらしめ、キリストの十字架は神のもとに人類を来たらしめます。       (D.マカスランド 「死の終わり」より一部引用)

2024年12月15日日曜日

2024年12月15日 第3主日礼拝 アドベント第3 アヴェ・マリア

招詞
 正しい人の口は知恵を語り、その舌は義を告げる。その心には、彼の神のみおしえがあり、彼の歩みはよろけることがない。                    詩篇37章30~31節

聖書箇所
ルカの福音書1章26~38

説教
アヴェ・マリア 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/571 十字架は残った

 キリストの教会は、ちょうど建物のように、このキリストを土台とし、その上に建て上げられるものであって、主の聖い神殿に成るものである。 これは、御霊が住まわれる生きた主の神殿であって、あなたがたお互いは、生きた交わりのうちに、教会を形成していくのである。
                       エペソ人への手紙2章21~22節 (現代訳)

 バルソラ教会は火事で焼け落ちました。火の勢いが収まると人々が集まりました。煙がくすぶり、灰が舞う中、驚いたことに焦げた十字架が真っすぐ立っていました。消防士は言いました:「建物は焼失したけれども、十字架は残った」と 。
 教会は建物ではありません。死んで葬られ、復活されたキリストによって結ばれた人々の信仰共同体です。イエスは、ペテロに言われました。「神は世界に広がる教会を作られ、何物もそれを壊すことができない」、と(マタ16:18)。イエスは世界中から信じる人々を集め、時代を超えて存続する共同体を造られます。この共同体は、これからも激しい困難に直
面しますが、最後まで耐え抜きます。上記の「ことば」のように神が彼らの中に住まわれ、支えられるからです。私たちは、今日イエスが建てておられる教会の一部です。イエスは、私たちと共におられ、私たちのために臨在されます。神の十字架は倒れません。 
                             「イエスに留まる 」より一部引用

2024年12月7日土曜日

2024年12月08日 第2主日礼拝 アドベント第2 ザカリヤの信仰

招詞
 主に信頼し、善を行え。地に住み、誠実を養え。主を自らの喜びとせよ。主はあなたの心の願いをかなえてくださる。あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。
                                   詩篇37篇3~5節

聖書箇所
ルカの福音書1章5~25

説教
ザカリヤの信仰 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/570 恵み(5)神の知恵と恵み

 主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである。」と言われました。                 コリント人への手紙第二12章9節

 「眠りの中でさえ忘れられない痛みが、一滴一滴と心の上に落ち、やがて自らの絶望の中で、自らの意思に反して、畏れるべき神の恩寵を通して知恵が到来する。」 ギリシャの詩人アイスキュロスの詩です。つまり、神の恵みは私たちを畏怖の念で満たし、最悪の状況という機会を活用して、私たちを知恵深い人に成長させてくださると語っています。
 ヤコブは「あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。そうすればきっと与えられます」と記しました(ヤコ1:5)。知恵は試練という土壌で成長する、と使徒ヤコブは語ります(2-4節)。試練のときは、神の知恵を学ぶだけでなく、神の恵みも知って安らぎます(Ⅱコリ12:9)。人生最悪の時、あなたに必要なものは、すべて神の中にあります。 (ビル・クラウダー 「知恵と恵み」より一部引用)

2024年12月1日日曜日

2024年12月01日 第1主日礼拝 アドベント第1 預言されたインマヌエル

招詞
 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、霊の砕かれた者を救われる。正しいには苦しみが多い。しかし、主はそのすべてから彼を救い出してくださる。      詩篇34篇18~19節

聖書箇所
イザヤ書7章14
マタイの福音書1章18~25節

説教
預言されたインマヌエル 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/569 恵み(4)驚くばかりの恵み

 このキリストにあって、私たちは、その血による贖い、背きの罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによることです。                 エペソ人への手紙1章7節

 ジョン・ニュートンは英国海軍にいやいや入隊したものの、命令に従わなかったので解雇され、奴隷取引に手を染めました。神をのろい、悪態をつくことで悪名を馳せ、大西洋を横断する奴隷貿易が最も残虐だった時代に奴隷運搬船で働き、船長にまで登りつめました。
 しかし、嵐の船上での劇的な回心が、ジョンを恵みの人に造り変えました。イエスが十字架上で流された血が彼を贖ってくれました。彼は、福音のメッセンジャーとなり、奴隷制度を廃止させる運動のリーダーにもなり、英国議会を動かしました。またジョンは、「驚くばかりの(アメージンググレース)」の作詞者としても有名です。
 冒頭のみことばの約束により、神を呼び求めるすべての人は、ジョンを造り変えた同じ恵みを手にすることができます。神の豊かな恵みを経験する待降節を過ごしましょう。
                    (フィリップ・ヤンシー 「神の恵み」より一部引用)

2024年11月24日日曜日

2024年11月24日 第4主日礼拝 福音を運ぶ器

招詞
 味わい、見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを。幸いなことよ、主に身を避ける人は。主を恐れよ。主の聖徒たちよ。主を恐れる者には、乏しいことがないからだ。詩篇34篇8~9節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙1章11~17

説教
福音を運ぶ器 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/568 恵み(3)贈り物


 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それは、あなたがたから出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
                              エペソ人への手紙2章8~9節

 アンバーは、家族とともに祖父の家に着き、古いワゴン車から降りました。子どもたちは、ハーレー・ダビッドソンに乗せてもらおうと、我先にとひいおじいちゃんに群がっていきました。アンバーが、田舎道をひとしきりドライブして戻り、鍵を渡そうとすると、祖父はにっこりと微笑み、鍵を彼に返したのです。アンバーは驚き、口をあんぐりと開けました 。「本気なの?」、「本気だよ」。祖父は愛する孫にハーレーをただで与えました。理由はひとつ、「孫をとても愛しているから」でした。 最高の贈り物とは、このようなものです。愛しているから贈るのです。あげなければならない理由があるからではありません。贈り主の愛のほかに、何の理由もありません。これが恵みです。メシア・イエスも同じです。神が私たちを愛しているという理由だけで人に与えられた贈り物です。                   (B.クラウダ— 「神の贈り物」より一部引用)

2024年11月17日日曜日

2024年11月17日 第3主日礼拝 キリストの福音

招詞
 私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。 
                                   詩篇34篇1~3節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙1章6~10

説教
キリストの福音 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/567  恵み(2)恵みに浸る


 あなたがたが早く起き、遅く休み、労苦の糧を食べたとしても、それはむなしい。実に主は愛する者に眠りを与えて下さる。                       詩篇127篇2節

 ランディ・ガードナーは1964年の1月8日、11日と25分間封印していた行為におよびました。つまり、眠ったのです。17歳のランディは、ソフトドリンクを飲み、バスケットボールやボウリングをして、1週間半眠りませんでした。倒れる前、味覚、嗅覚、聴覚はめちゃくちゃでした。こうしてギネスの世界記録を作ることができました。しかし、数十年後、ランディは、重度の睡眠障害に苦しみました。彼は記録を作りましたが「眠りは不可欠」という「すごく当たり前のこと」も確認しました。
 詩篇の作者は、「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」と語りました。神に必要なものをいただかなければ、私たちの苦労や努力は無益です。しかし、感謝なことに、神は必要を満たしてくださいます。さらに聖書は、「主はその愛する者には、眠っている間に、このように備えてくださる」と語ります。神の愛は、私たちすべてを包みます。神は、心配せずに、神の恵みに浸って休みなさいと招いておられます。  (W.コリエール 「恵みに浸る」より一部引用)

2024年11月10日日曜日

2024年11月10日 第2主日礼拝 恵みと平安

招詞
 まことに、主のことばは真っすぐで、そのみわざはことごとく真実である。主は正義と公正を愛される。主の恵みで地は満ちている。主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口の息吹によって。全地よ。主を恐れよ。すべて世界に住む者よ、主の御前におののけ。 
                                 詩篇33篇4~6、8節

聖書箇所
ガラテヤ人への手紙1章1~5

説教
恵みと平安 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/566 恵み(1)

 主に信頼する者には、恵みがその人を囲んでいる。            詩篇32篇10節

 巨大な看板広告が目に飛び込んできました。そこには、真っ赤な背景に白抜きで「今年、頑固が原因でたくさんの男性が死亡するでしょう」とでかでかと書かれています。これは、中年男性に定期健診を受けるように促す看板広告で、街のあちこちに作られたそうです。この国では、中年男性の定期健診受診率は低く、早期発見であれば治せる病気で亡くなる人が多いのだそうです。
 詩篇32篇は、罪という霊的な病について語ります。この病の治療法は、率直に罪を認めて悔い改めることです。最初の5節には、罪を隠しているがゆえの苦しみと、罪を告白して赦された解放感や喜びが綴られています。罪にしがみつくのはやめましょう。神は別の方法を示してくださいます。謙虚に罪を認めて悔い改めるなら、「恵みが、その人を取り囲む」と聖書は語っています。
                   (D.C.マカスランド「恵みに囲まれる」より一部引用)

2024年11月3日日曜日

2024年11月03日 第1主日礼拝 兄弟愛の教会

招詞
 主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口の息吹によって。全地よ、主を恐れよ。すべて世界に住む者よ、主の御前におののけ。           詩篇33篇6、8節

聖書箇所
ヨハネの黙示録3章7~13

説教
兄弟愛の教会 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/565 ガラテヤ人への手紙

 キリストは、今の悪の時代から私たちを救い出すために、私たちの罪のためにご自分を与えてくださいました。私たちの父である神のみこころにしたがったのです。 ガラテヤ人への手紙1章4節

 「ガラテヤ」というのはひとつの町の名ではなく、トルコの中部地方の名前です。黙示録の7つの教会の東に位置していました。パウロが第一次伝道旅行の時に訪れた「ガラテヤ」とは、南ガラテヤ地方にあるピシディアのアンティオキア、イコニオン、リステラ、デルベの四つの都市を指します(使徒13、14章)。したがって、ガラテヤ人への手紙とは、この四都市に住むガラテヤ地方のクリスチャンに宛てた手紙のことです。
 この地方には、ユダヤ人が多く、会堂(シナゴグ)での土曜日の礼拝も盛んだったようです。パウロの福音を聞いてイエスをメシアと信じたユダヤ人も少なくなかったので、異邦人とユダヤ人の混じった教会が生まれました。しかし、そこで、パウロ達の伝道で生まれた若い教会が直面したのは、「イエスを信じても割礼を受けなければ救いは完成しない」という主張する一派の影響でした。
 次週から、ガラテヤ人への手紙を丁寧に学び、パウロが伝えた福音の神髄を探っていきます。

2024年10月27日日曜日

2024年10月27日 第4主日礼拝 教会創設50周年記念礼拝 主が共に在るから

招詞
 正しい者たち。主を喜び歌え。賛美は、直ぐな人たちにふさわしい。竪琴に合わせて、主に感謝せよ。十弦の琴に合わせて、ほめ歌を歌え。               詩篇33篇1~2節

聖書箇所
詩篇103篇1~22節

説教
主が共に在るから 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/564 寛容(5) 強さと寛容
 
 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。      ピリピ人への手紙4章5節

 ナチスのオランダ侵攻に伴って、アンネ・フランクの一家は危険を逃れるために隠れ家に移りました。そして、第二次世界大戦中の二年間、発見されて強制収容所に送られるまで、そこで暮らしました。彼女は有名な「アンネの日記」に、「結局のところ、長い目で見れば、すべての武器の中で、最も鋭いもの(効果のあるもの)は親切で優しい心だ」と記しました。
 イエスは宮に入り、そこで売り買いする者たちを追い出し、両替人の台を倒されましたが、子どもたちの神を讃える声を聴き、優しく気遣われました(マタイ21章)。また、強い言葉でパリサイ人たちを非難されましたが(マタイ23章)、神の慈悲が必要な女性を優しく赦されました(ヨハネ8:1-11)。

 弱者のために立ち上がったり、不正を糾弾したりすべき時もありますが、私たちは同時に、寛容な心をすべての人に知らせなくてはなりません。神に仕えるなら、最も偉大な強さとは、困窮している人たちに対して寛容で優しい心を示すことです。(D.ブラノン 「寛容で力強い」より一部引用)

2024年10月20日日曜日

2024年10月20日 第3主日礼拝 無感動のサルデス教会から

招詞
 主に信頼する者は、恵みがその人を囲んでいる。正しい者たち、主を喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。                詩篇32篇10~11節

聖書箇所
ヨハネの黙示録3章1~6

説教
無感動のサルデス教会から 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/563 寛容(4) 残していくもの

 あなたがたは神に選ばれた者、聖なる者、愛されている者として、深い慈愛の心、親切、謙遜、柔和、寛容を着なさい。                   コロサイ人への手紙3章12節

 隣人のトレバー・スロット氏は警察官でしたが、ふたり組の銀行強盗を逮捕しようとして殺されました。近所の人たちみんなが、大きなショックを受けました。
 トレバーは、天国に行く準備はできていました。キリストを信じる信仰はゆるぎなく、誰もが認める素晴らしい人格者でした。葬儀には何百人もの警察関係者ほかが参列して、同僚のブランディン刑事が次のような弔辞を述べました。「トレバーはひたむきな警察官でしたが、しかめっ面のヒーローではなく、何より、奥さんのキムとふたりの娘さん、ケイトリンとアビーを大切にしていた優しい男でした。」 彼に対する賛辞の全ては、その立派な人柄と彼の家族愛を物語るものでした。
 トレバーの人生は、冒頭の聖句を模範にしたものでした。このような品性は、人の心に感動を残していきます。
 いつ自分が天に召されるのか、誰にも分かりません。しかし、分かっていることがあります。それは、毎日がクリスチャンにふさわしい証を残すチャンスだということです。私たちは、良かれ悪しかれ、後に残していくものを毎日増やしていることを覚え、良いものを残していくように努めましょう。                 (D.ブラノン 「私が残していくもの」より一部引用)

2024年10月13日日曜日

2024年10月13日 第2主日礼拝 イエスの言葉を信じた 王室の役人

招詞
 幸いなことよ。その背きを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならず、その霊に欺きのない人は。                    詩篇32篇1~2節

聖書箇所
ヨハネの福音書4章46~54

説教
イエスの言葉を信じた王室の役人 菅孝雄神学生


言(こと)ローグ/561 寛容(3)寛容の実を見せる
 深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。   コロサイ人への手紙3章12節

 苗木屋が黄桃(おうとう)の木の販売促進案を考えていました。若木をおしゃれにディスプレイしようか、きれいなカタログを作ろうか、など。ついに妙案が思い浮かびました。甘く香る、産毛におおわれた深いオレンジ色の黄桃を使うのです。完熟した果実をもいで切り、果汁が滴る実を1切れずつ客に渡しました。見事に当たりました。一切れを味わった客は、苗木を買っていきました。
 神はキリスト者の御霊の実にご自身を現されます。寛容も言葉だけでは、伝わりにくいですが、行いで寛容を示すなら、人はそれを欲しがるでしょう。そして、その実をならす源を探し求めるでしょう。御霊の実は、キリスト者が、己が代理人を務める神を知っていただきたいと人々を招くものでもあります。青葉の中で黄色の桃が目立つように、寛容の実は愛に飢える世界に呼びかけます。「ここに食物があります。いのちがあります。悩みや疲れを乗り超える道が見つかります。神に会ってください」と。             (E.モルガン 「実で木を売る」より一部引用)

2024年10月6日日曜日

2024年10月06日 第1主日礼拝 トマスの葛藤と復活の主

招詞
 主にある敬虔な者たちよ、主をほめ歌え。主の聖なる御名に感謝せよ。 まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
                                   詩篇30篇4~5節

聖書箇所
ヨハネの福音書20章24~29

説教
トマスの葛藤と復活の主 永井創世KGK主事


言(こと)ローグ/560 寛容(2)寛容のアップグレード
 深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。 コロサイ人への手紙3章12-13節

 家を出て仕事に向かおうとすると、「そんな格好で行かないで!」と妻のマーティに呼び止められることがあります。そして大抵の場合、ネクタイの色がもうひとつだとか、ジャケットとズボンが合っていないなどと言われます。自分の服装に疑問を呈されると、ファッションセンスに文句をつけられているようで良い気分はしませんが、妻の助言は正解だということはもう分かっています。それは、私をアップグレードさせてくれるのです。
 上記の聖句は、クリスチャンとして自らのアイデンティティーと一致する態度や行為を身に着けなさいと、私たちを促します。私たちは制服などの服装によって、自分が誰なのかをみんなに知ってもらうことがあります。一方で、イエスがともにおられることを表す態度や行動を身に着けていることによって、イエスを世の人に知ってもらうこともできます。寛容は、イエスが身に着けておられた大事な姿勢の一つでした。イエスが身に着けていた寛容を身に着けたいのなら、祈りと聖書の熟読でイエスと一緒に時間を過ごすことから始めましょう。もし、イエスに「そんな格好で行かないで!」と言われたら、イエスの思いやりあるアドバイスを聞き入れ、イエスの似姿を身につけさせてもらいましょう。あなたの寛容のアップグレードです。
                  (J.ストーウェル 「常にアップグレード」より一部引用)

2024年9月29日日曜日

2024年09月29日 第5主日礼拝 比較しない人生

招詞
 私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を癒してくださいました。 主よ。あなたは私のたましいをよみから引き上げ、私を生かしてくださいました。私が穴に下って行かないように。                                 詩篇30篇2~3節

聖書箇所
ヨハネの福音書21章18~25節

説教
比較しない人生 内灘聖書教会主任牧師(DVD)

言(こと)ローグ/560 寛容(1) 優しく正す
 深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。互いに忍び合い、 
                           コロサイ人への手紙3章12~13節

 ケニアのナイロビで開催された国際会議が終わって、私たちは宿泊先に移動しました。翌朝、帰国の予定です。ところが宿舎に到着すると、会議場に忘れ物をした人がいました。その人が会議場に戻って行くと、いつも几帳面なグループのリーダーが、彼女を鋭く咎めました。
 翌朝空港に着くと、こともあろうに、そのリーダーがホテルに荷物を忘れてきたといいます。荷物だけでなく、パスポートも置いてきてしまいました。彼の忘れ物を取りに戻るためには、昨日以上にみんなに迷惑がかかりました。彼は後でみんなに謝り、「もう決して他人を厳しく批判しない」と言いました。
 私たちはみんな、それぞれに欠点や弱点があるので、何かがうまくいかなくなったときでも、互いに忍び合い、互いに赦しあうべきです(コロ3:13)。批判は常に建設的でなくてはなりません。また、深い同情心と慈愛、謙遜、柔和、寛容を身につけましょう(12節)。どうしても叱らなくてはならないときも、愛と思いやりの態度ですべきです。そのようにして、私たちは主イエス・キリストに似た者となります。            (L.ダルマニ 「優しく正す」より一部引用)

2024年9月22日日曜日

2024年09月22日 第4主日礼拝 最初の奇蹟 ー あなたの一大事はイエスの一大事だ!

招詞
 ダビデの賛歌。力ある者の子らよ。主に帰せよ、栄光と力とを主に帰せよ。御名の栄光を、主に帰せよ。聖なる飾り物を着けて主にひれ伏せ。               詩篇29篇13節

聖書箇所
ヨハネの福音書2章1節~11

説教
最初の奇蹟 ー あなたの一大事はイエスの一大事だ! 菅 神学生


言(こと)ローグ/559 謙遜についての教え(12)「謙遜 」

 (イエスは)ご自分を空しくして、しもべの姿をとり……     ピリピ人への手紙2章7節


 大学バスケットボールのスター選手が、試合後、会場の従業員と一緒にゴミを拾っていました。ファンがその動画を投稿すると8万人以上が視聴し、「最も謙虚な人の一人」という賞賛もありました。
 キリストの模範は、私たちを促し、家事の手伝いやゴミ拾いといった謙遜な行いをさせるかもしれません。しかし、それが最も大きな影響力を持つのは、謙遜な行動が謙遜な心を作ったときでしょう。
 本当の謙遜は品性です。目に見える行動だけでなく、何が大切かという価値観も変えてしまいます。文筆家であり牧師のアンドリュー・マーレーは「謙遜はきよさの花であり美しさである」と語りました。私たちも、キリストの思いを抱くことで、聖霊の力によって、この美しさを表していけますように(2-5節)。            (J. シュルツ 「謙遜に生きる」より一部引用)

2024年9月15日日曜日

2024年09月15日 第3主日礼拝 腐敗のパン種

招詞
 ほむべきかな、主。主は私の願いの声を聞かれた。 主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。私の心は喜び踊り、私は歌をもって、主に感謝しよう。 詩篇28篇6~7節

聖書箇所
ヨハネの黙示録2章18~29

説教
腐敗のパン種 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/558 謙遜についての教え(11)「謙遜の報い」

 へりくだりと、主を恐れることの報いは、富と誉れといのち。        箴言22章4節

 米国での教員に関する最近の調査によると、協力の効果が増大するのは、お互いが弱さを隠さない時だそうです。各々がへりくだって弱さをさらけだすなら、意見を言っても安全だと感じ、同僚の間で効果的な助け合いが生まれるといいます。聖書は謙遜の重要性を教えますが、それは仲間の協力のためだけではありません。「主を恐れる」とは、麗しく力強い全能の神と比較して自分を正しく理解することです。その報酬は「富と誉れといのち」です。謙遜は、世俗の価値ではなく、神の目に実りあるとされる共同体生活へと私たちを導きます。自分と同じく神のかたちをした信仰者の益を相互に求めるからです。ただし、「富と誉れといのち」を獲得するために、神を恐れるわけではありません。もしそうなら真の謙遜とはいえません。むしろ、「ご自分を空(むな)しくして、しもべの姿をと」られた(ピリピ2:7)イエスに倣うのです。 
                          (K. H「謙遜に生きる」より一部引用)

2024年9月8日日曜日

2024年09月08日 第2主日礼拝 マナと白い石

招詞
 一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗(うるわ)しさに目を注ぎ、その宮で思いを巡らすために。    詩篇27篇4節

聖書箇所
ヨハネの黙示録2章12節~17

説教
マナと白い石 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/557 謙遜についての教え(10)「謙遜に生きる 」

 彼が強くなると、その心は高ぶり、ついに身に滅びを招いた。    歴代誌第二26章16節

 ムーディ聖書学院の創設者、ドワイト・ムーディーは言いました。「自分は強いと自信をもったとき、その人の転落は、遠くない。誰の目にも明らかになるまで数年かかるかも知れないが、転落はもう始まっている。」 ユダ王国の第10代の王ウジヤ王の場合も、全くこの通りでした。

 ウジヤの人生は、すべてが順調のようでした。彼は、在位した期間の大半は、神に従い霊的指導者に服従しました。王は神に助けを求め、神は必ず王に成功を与えられました。ところが、自分の成功に酔って分別がなくなってしまったのです。彼の思い上がりは、色々なところに現れました。彼は神の神聖を侵しました。自分は祭司の地位についていないにもかかわらず、聖所に入って香をたこうとしました(16節)。さらに、彼を正そうとした祭司の助言に耳を貸さず、悔い改めのチャンスを逃してしまいました。ウジヤは罪の報いを恐れるどころか、気にも留めませんでした(18-19節)。主は、彼をハンセン氏病で打たれました。ウジヤは「主は強める」という意味ですが、彼の暴走を主が止める結果になりました。

 神が何らかの分野で成功させてくださったなら、その成功の源である神さまを忘れてはいけません。神の前にへりくだりましょう。神は、謙遜な人を祝福してくださるのですから。低く生きるよう決断するなら、神が高くしてくださいます。
                    (M.ウィリアムズ「謙遜に生きる」より一部引用)

2024年9月1日日曜日

2024年09月01日 第1主日礼拝 華のスミルナ教会

招詞
 主は私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。主は私のいのちの砦(とりで)。だれを私は怖(こわ)がろう。                            詩篇27篇1節

聖書箇所
ヨハネの黙示録2章8節~11節

説教
華のスミルナ教会 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/556 謙遜についての教え(9)「イエスに仕える 」

 いつ私たちは、あなたが病気をしたり牢(ろう)におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。                            マタイの福音書25章39節

 エリザベス・フライは、19世紀初頭、ロンドンの女性刑務所の環境に衝撃を受けました。受刑者とその子どもたちは、すし詰め状態で冷たい石の床に寝具もなく横たわり、水道の蛇口からはジン(酒類)が出ていました。彼女の監獄改良事業が始まり、英国の女性刑務所が変わり始めました。彼女は、受刑者に衣服を与え、子どもたちの学校を始め、聖書を教え、何年もかけて改革しました。しかし、最大の影響力は、その深い愛情と希望のメッセージだったそうです。
 聖霊の助けを得て他者に仕えるとき、不思議なことに、私たちはイエスに仕えています。エリザベスの模範に倣うことも、自宅でとりなしの祈りをしたり、励ましの手紙を書いたりすることも、また然りです。人を助けるために自分の力や霊の賜物を用いる行為を、イエスは、ご自分に対する愛と捉え喜んでくださいます。       ( A.ブッシャー「イエスに仕える」より一部引用)

2024年8月29日木曜日

2024年08月25日 第4主日礼拝 主は近い

招詞
 主よ、私を弁護してください。私は誠実に歩み、よろめくことなく、主に信頼しています。主よ、私を調べ、試みてください。私の心の深みまで精錬してください。あなたの恵みは、私の目の前にあり、あなたの真理のうちを、私は歩み続けました。         詩篇26篇1~3節

聖書箇所
ピリピ人への手紙4章4節~7

説教
主は近い 周士筠神学生

言(こと)ローグ/555 謙遜についての教え(8)「プライドに勝つ」
 何事も自己的な思いや虚栄からするのではなく、へりくだって、互いに人を自分よりすぐれた者と思いなさい。                         ピリピ人への手紙2章3節

 シンクレア・ルイスの小説「本町通り」(岩波文庫)は、田舎の開業医と結婚した洗練された都会の女性、キャロルの物語です。彼女は、新しく暮らすことになった小さな町で、自分はみんなより優れているとお高く止まっていました。しかし、重症の患者に対応する、医師である夫の姿を見て、自分の間違いを示されます。それは移民の小作農が大怪我をして運び込まれ、腕を切断しなければならないというときでした。キャロルは、患者と取り乱している患者の妻を優しく励ます夫の姿を見て、心から彼を尊敬しました。暖かく真摯に人に仕える医師の姿は、プライドに凝り固まったキャロルの心に衝撃を与え溶かしていきました。

 冒頭のみ言葉は、クリスチャンが、イエスに従うものとして、自己の優越感(プライド)を捨てて相手の益のために喜んで仕える姿勢を求めています。イエスの模範をしっかり見るならば、私たちも、他人の必要を自分の必要以上に大切にすることを学んでいけるでしょう。イエスは「仕える者の姿」をとってくださり、私たちのためにご自身をささげてくださいましたから(5-8節)。
                        ( D.フィッシャー「田舎医者」より一部引用)

2024年8月17日土曜日

2024年08月18日 第3主日礼拝 看守家族の救い

招詩
 主は、いつくしみ深く正しくあられます。それゆえ、罪人に道をお教えになります。主は貧しい者を正義に歩ませ、貧しい者にご自分の道をお教えになります。主の道はみな恵みとまことです。主の契約とさとしを守る者には。                   詩篇25篇8~10節


聖書箇所
使徒の働き16章16節~34

説教
看守家族の救い 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/554 謙遜についての教え(7)「模範に励まされる 」

 主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、…… わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです。
                            ヨハネの福音書13章14~15節

 D.L.ムーディー聖書学院長の聖書講座が1800年代後半に米マサチューセッツ州で行われたとき、ヨーロッパ中から牧師たちの一行がやって来ました。当時のヨーロッパの習慣では、ホテルの宿泊客は、寝る前に自分の靴を部屋の外に置きました。ホテルの従業員に靴を磨いてもらうためです。ムーディーは、アメリカ人でしたがその習慣を知っていたので、外に出してある彼らの靴を見たときに、ホテルの従業員に伝えましたが、誰も磨こうとしません。それでムーディーは靴を全部集め、自ら磨きました。ある晩、友人が不意に彼の部屋にやって来て、ムーディーがしていることを目撃しました。するとその話が広がり、出席者の牧師たちが持ち回りで靴を磨くようになりました。
 私たちは謙遜であることによって、神の真理を順送りに伝えることができます。その模範に倣いたいと思う他の人を励ましたり、奮い立たせたりします。こうして、神の真理が伝わるのです。
 イエスご自身が奉仕の模範です。イエスはご自身のすべてを私たち下さいました。
                    (アルバート・リー「模範に励まされる」より引用)

2024年8月10日土曜日

2024年08月11日 第2主日礼拝 エペソ市のクリスチャン

招詞
 主よ。あなたの道を私に教え、歩むべき所を私に示してください。あなたの真理の道に私を導き、私を教え諭してください。あなたこそ、私の救いの神、私は一日中あなたに望みを置いています。                               詩篇25篇4~5節 (現代訳)

聖書箇所
黙示録2章1節~7

説教
エペソ市のクリスチャン 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/553 謙遜についての教え(6)「仕える者に」

 あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなたがたの間で先頭に立ちたいと思う者は、皆のしもべになりなさい。人の子も、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのです。
                            マルコの福音書10章43~45節

 アメリカの小さな大学での話です。この大学は経営難に陥り、資金が必要でした。建物は古くなり、先生たちの給料も払えなくなってしまいました。ある日、見知らぬ人がこの大学にやってきました。たまたま作業服を着て、壁を洗っている人を見かけたので、その人に訪ねました。「学長にお目にかかりたいのですが。」 すると、彼は、「12時に学長室にいらしたら、お会いになれると思います」と答えました。
 訪問客が言われたとおりの時間に学長室に行くと、なんと先ほどの作業服の人がきちんとした洋服に着替えて、学長室にいるではありませんか。彼は、実は学長だったのです。
 数日後、一通の手紙が学長宛に届きました。その中に大学への寄付金として5万ドル(約750万円)の小切手が同封されていました。学長の謙遜な心と行いがこの見知らぬ人の心を打ち動かしたのです。
 冒頭のみ言葉は、「謙遜について」の教えであり、その教えはイエス自らがその模範となっているのです。                      (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2024年8月4日日曜日

2024年08月04日 第1主日礼拝 ラオデキヤのクリスチャン

招詞
 だれが、主の山に登りえるのか。だれが、聖なる御前に立てるのか。手がきよく、心の澄んだ人、そのたましいをむなしいものに向けず、偽りの誓いをしない人。その人は、主から祝福を受け、自分の救いの神から義を受ける。                 詩篇24篇3~5節

聖書箇所
コロサイ人への手紙4章7節~18

説教
ラオデキヤのクリスチャン 田口勇新牧師


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言(こと)ローグ/552 謙遜についての教え(5)「謙遜の第一歩」

 だれでも、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされます。
                     マタイの福音書23章12節 (ルカ14:11、18:14)

 「謙譲」という日本独特の文化があり美徳とされます。自分や自分の家族を実際より低く見せることによって相手を高めて尊敬しようというかかわりです。ですから、何か物を出す時に「何もございませんがどうぞ」とか、「つまらない物ですけどどうぞ」とかいう言い方が使われるわけです。これは相手の目線を気にする文化、自分が相手からどう思われている
だろうかという日本特有の相手を意識した語彙です。「謙譲」は、あくまでも人と人との関わりから生まれた知恵です。
 しかし聖書のいう「謙遜」は、「謙譲の美徳」とは全く異なるものです。人と人ではなく、「主の御前にへりくだること」です。それが、聖書のいうほんとうの「謙遜」です。
 十字架は壮絶な痛みを伴う刑罰です。しかも極悪人がつけられる恥辱に満ちた刑でした。しかし御子イエスは、ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても脅すことをせず、正しく裁かれる方におまかせになりました。ここにイエスの謙遜の極みがあります。使徒パウロは、こう表現しています。「キリストは、・・ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、・・自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死までも従われた
のです。」(ピリピ人への手紙 2:6~8) 「無にして、仕える、卑しくし、従う」ということばが羅列されていますが、最後の「従われた」ということが、換言すると、「はい」なのです。「はい、主よ」が謙遜の第一歩です。 <つづく>         (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2024年7月28日日曜日

2024年07月28日 第4主日礼拝 アリスタルコとマルコ

招詞
 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われます。主は私のたましいを生き返らせ、御名のゆえに、私を義の道に導かれます。
                                   詩篇23篇1~3節

聖書箇所
コロサイ人への手紙4章7~18節

説教
アリスタルコとマルコ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/551 謙遜についての教え(4)「モデルはイエスさま」

 私は、・・・ 謙遜の限りを尽くし、涙とともに主に仕えてきました。
                                 使徒の働き20章19節

 これは、パウロが、エペソ教会の長老たちに語った惜別のことばです。
パウロはエペソの教会を三年余り、手塩にかけて建て上げるうえでかなり意識的に「謙遜の限りを尽くして」主に仕えたことが理解できます。しかしその背景には、「謙遜の限りを尽くして、神に仕え」た真のモデルがいます。それが主イエス・キリストです。パウロの生き方はまさに主イエス・キリストの従順に完全に倣うものであったと言えます。

 キリストは、神の御姿であられるのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまでも従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。         ピリピ人への手紙2章6~9節

 この御子イエスの従順こそ、真の「謙遜」の姿です。パウロはこの謙遜を見倣うようにと勧めています。私たちはイエスさまから、以下のような、謙遜に歩む招きをいただいています。
わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。                          マタイの福音書11章29節
                          (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2024年7月21日日曜日

2024年07月21日 第3主日礼拝 ティキコとオネシモ

招詞
 あなたのしもべを、傲慢から守ってください。それらが私を支配しないようにしてください。そのとき私は、大きな背(そむ)きから解き放たれて、全き者となるでしょう。私の口のことばと、私の心の思いとが、御前に受け入れられますように。主よ、わが岩、わが贖い主よ。
                                 詩篇19篇13~14節

聖書箇所
コロサイ人への手紙4章7節~18

説教
ティキコとオネシモ 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/550 謙遜についての教え(3)「自分を無にして」

 キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべ(ドゥーロス)の姿をとり、人間と同じようになられました。
                              ピリピ人への手紙2章6~7節

 イエスは決して神性を捨てられたのではありません。神の本質の変化ではありません。ただ、地位と状態が変化したのです。神の権威ある地位から、しもべの状態に、その働きを変えられたというのが、ピリピ2:6~7で言おうとしていることです。しかもその変化は、自覚的・主体的です。強制や義務から変えたというのではありません。むしろ積極的に「しもべ(仕える者)」となられたのです。
私たちはひとりひとり、主のことばに照らされて歩んでいるかを吟味しなければなりません。クリスチャンであることは、肩書きでもなく、飾りでもなく、キリストのしもべという実質をもった存在でなければならないのです。そのような存在になるようにと言われた主に従うことができるように、私たちに寄り添っていてくださる神の賜物、助け主である聖霊の助けを仰ぎたいと思います。

 わたしは、あなたの神、主である。・・・あなたの口を大きく開けよ。わたしが、それを満たそう。     詩篇81篇10節           (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2024年7月12日金曜日

2024年07月14日 第2主日礼拝 塩味の効いたことば

招詞
 主のおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主の証しは確かで、浅はかな者を賢くする。主の戒めは真っ直ぐで、人の心を喜ばせ、主の仰せは清らかで、人の目を明るくする。
                                   詩篇19篇7~8節

聖書箇所
コロサイ人への手紙4章2節~6

説教
塩味の効いたことば 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/549 謙遜についての教え(2) 「律法からの自由」


 私は、本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるのでしょうか。                             ローマ人への手紙7章24節

 使徒パウロは「謙遜の限りを尽くして・・主に仕えた(使徒20:19)」とエペソの長老たちに言いました。彼の前身はパリサイ派の律法学者でしたから、律法に照らすと以前の自分は失格者で、霊的に破産した者であることを認めたうえでの言葉でした。しかし、感謝すべきことに、あのダマスコ途上でイエス・キリストをメシアと信じた時(使徒9章)に、パウロの霊の目が開かれ、律法(=罪と死の原理)から解放され自由になったのでした。同時に、イエスを信じる福音には、人を変え、律法にはできないことを可能にする力があることを知ったのです。
 それ以来、パウロは、絶えず、主イエスさまにより頼んで、主との交わりの中に生きることをめざしました。そして、その過程で、ご聖霊が結ばせてくださる実が結ばれること悟り、ガラテヤ教会への手紙では、9つの実を紹介しています(ガラテヤ5:22~23)。
 イエスにより頼み、主との交わりの中に生きよという教えは、イエス様ご自身、ブドウの木の例えでわかり安く説明しています。
 「わたしにとどまりなさい。枝が・・・実を結ぶことができないのと同じように、あ
なたがたもわたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。」                ヨハネの福音書 15章4~5節(一部)
                          (銘形「謙遜への招き」より一部引用)
 

2024年7月7日日曜日

2024年07月07日 第1主日礼拝 神の家族

招詞

神、その道は完全。主のことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。主のほかに、だれが神でしょうか。私たちの神を除いて、だれが岩でしょうか。      詩篇18篇30~31節


聖書箇所
コロサイ人への手紙3章11節~4章1

説教
神の家族 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/548 謙遜についての教え(1)「霊的貧困の自覚」

 心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。
                                 マタイの福音書6章3節

 イエスの公生涯において、山上の説教で言われた最初の教えは「謙遜について」でした。「心の貧しい人」とは、どんな人のことを言うのでしょうか。ここで使われている「心の」と訳されたギリシャ語は、「霊において」という意味です。つまり、神とのかかわりにおける、人の貧しさです。1テサロニケ5:23によれば、人は「霊(ニューマ)とたましいと身
体」と言う三つの部分からなっているように記述されていますが、英語訳では、たましいは、「内なる自身」と訳され、霊を含むものと考えても良いでしょう。「霊(ニューマ、ヘブル語ルアハ)」とは人に与えられた部分のうち神との交わりをすることのできる部分です。この霊が与えられているのは被造物の中で人間だけでした。しかし、最初の人間であるアダムとエバは神の言われることに逆らい、ヘビ(悪魔)の言う事を信じてしまったために、神とのかかわりのニューマは傷つき、壊れて、機能不全を引き起こしてしまったのです。「貧しい」ということばは、ギリシャ語で、普通の貧しさ、貧乏ではなく、本当の、差し迫った窮乏、自己破産した状況を意味することばです。つまり、3節前半は、機能不全に陥った自分を認め、霊的に自己破産した状態で主に呼びかけ助けを求める姿です。そういう人が、天の御国に迎えられる、とイエスは言います。人間としての誇りの鎧(よろい)を脱ぎ、謙遜に「栄光は主に」、と心から叫ぶ人を主は、喜び受け入れられます。                         (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2024年6月30日日曜日

2024年06月30日 第5主日礼拝 神のことばだけが永遠に

招詞
 神、その道は完全。主のみことばは純粋。主は、すべて主に身を避ける者の盾。 主のほかにだれが神でしょうか。私たちの神を除いて、だれが岩でしょうか。      詩篇18篇30~31節

聖書箇所
イザヤ書40章6~8節
ヨハネの福音書1章1節

説教
神のことばだけが永遠に 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/547 「三度も」ということばが意味するもの

 「アバ、父よ、あなたは何でもおできになります。どうか、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの望むことではなく、あなたがお望みになることが行われますように。」 
                               マルコの福音書14章36節


 聖書には「三度」ということばは意外と重要な意味合いをもっています。パウロの願いはなぜ何度でもなく「三度」なのでしょう。イエスのゲッセマネの祈りのときにも、十字架を前にしてイエスは御父に祈りました。たとえ一時的にしろ、死をもって父と切り離される、罪の無い、神の子としての苦しみの祈りでした。どうしてもこの杯—十字架による身代わりという手段—を飲まなければならないのですか。他の方法はないのですかと、イエスは三度御父に祈っています。そして三度ともイエスの祈りには御父は答えられませんでした。答えられなかったということが答えなのです。つまり、その「杯」を飲み干すことを通してしか、人類の救いがないということです。イエスは三度祈ってそれが御父のみこころだと受けとめ、それから敢然と自ら、十字架に向かって行かれたのです。                     (銘形「謙遜への招き」より一部引用)

2024年6月23日日曜日

2024年06月23日 第4主日礼拝 得たものと捨てるもの

招詞
 その大能のみわざのゆえに、神をほめたたえよ。 その比類なき偉大さにふさわしく、神をほめたたえよ。 角笛を吹き鳴らして、神をほめたたえよ。 琴と立琴に合わせて、神をほめたたえよ。                                   詩篇150篇2~3節

聖書箇所
コロサイ人への手紙3章1~11節

説教
得たものと捨てるもの 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/546 ニムロデ ~ セムの家系なのに

 「さあ、われわれは自分たちのために、町(都市)と、頂が天に届く塔を建てて、名をあげよう。」                                創世記11章4節

 神とともに歩もうとしたセツの系譜のハムから、主に対抗する者たちが台頭してきました。ハムの子クシュから未子の問題児「ニムロデ」が生まれます。ニムロデは、メソポタニア地方で最高の権力者となり大きな町「ニネベ」と「バベル」を建てました。上記「名をあげる」とは自分たちの存在を誇示することであり、神ぬきの世界を築くことを意味します。それを神は、ことばを乱して意思疎通を妨げる方法で止めました。ニムロデたちが最も恐れていたことでした(10:7-10)。そうした流れの中に、セツからセムへ、やがてヘブル人アブラハムにつながっていく系譜が記されています。そして、時いたって主イエス・キリストが誕生します。私たちは今やこのイエス・キリストとつながることにより、信仰者の系譜の中に招かれているのです。
                           (銘形「ノアの系図」より一部引用)

2024年6月16日日曜日

2024年06月16日 教会創設50周年記念 音楽礼拝 

聖書箇所
イザヤ書49章15節
マタイの福音書25章31~40節

メッセージ
神が生きて働いてくださる実感 木下春樹牧師


2024年6月9日日曜日

2024年06月09日 第2主日礼拝 教会の主はイエス ②

招詞
 正しい人の救いは、主から来る。苦難のときの、彼らの砦から。主は彼らを助け、解き放たれる。                              詩篇37篇39~40節

聖書箇所
コロサイ2章8~23

説教
教会の主はイエス ② 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/545 みことばを食べる(アコル)

 私はあなたのみことばが見つかったとき、それを食べ(味わい)ました。
そうして、あなたのみことばは、私にとって、楽しみとなり、心の喜びとなりました。
                                 エレミヤ書15章16節

 南王国のマナセ王が行った数々の悪行は、南ユダの滅亡、即ち、エルサレム陥落とバビロン捕囚を招く要因となりました。エレミヤは、この聞く耳を持たないマナセ王に預言と苦言を語り続けなければなりませんでした。次節の主の怒りの言葉を受け、無力感を経験し、預言者としての召命に揺らぎが出た時と言われています。

 主は私に言われた。「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立っても、わたしの心はこの民に向かわない。この民をわたしの前から追い出し、立ち去らせよ。彼らがあなたに、『どこへ去ろうか』と言うなら、あなたは彼らに言え。『主はこう仰せられる。死に定められた者は死に、剣に定められた者は剣に、ききんに定められた者はききんに、捕囚に定められた者は捕囚に。』 
                                エレミヤ書 15章1~2節

 それでもエレミヤは、主のことばを王に語り続けました。上記、16節は、不信の王と主の怒りの狭間で見出した主からの励ましのみことばでした。後日、マナセ王自身は苦難に遭って、まことの神、主に立ち帰りましたので旧約の放蕩息子とも呼ばれています。悔い改めるのに遅すぎることはないという好例です。マナセ王の孫は、あの善王ヒゼキヤです。

2024年5月31日金曜日

2024年06月02日 第1主日礼拝 教会の主はイエス ①

招詞
 正しい人は地を受け継ぎ、いつまでもそこに住む。主を待ち望め。その道を守れ。主はあなたを高く上げ、地を受け継がせてくださる。              詩篇37篇29、34a節

聖書箇所
コロサイ人への手紙1章17節~2章7節

説教
教会の主はイエス① 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/544 「慕い求める」と「捜し求める」


 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。                      エレミヤ書 29章13~14節 (新改訳2017)
わたしを捜し求めるならば見いだし、心を尽くしてわたしを尋ね求めるならば、わたしは見いだされる。                  エレミヤ書 29章13~14節 (聖書協会共同訳)

 13節には二つの渇望用語、慕い求める(バーカシュ)と捜し求める(ダーラシュ)が使われていますが、新改訳はその二つを同義的に訳しています。しかし、聖書協会共同訳ではその二つをそのまま訳しています。慕い求める(バーカシュ)が感情的な求めが強いのに対して、捜し求める(ダーラシュ)の方は、探り出す、調べるといった理性的意味合いが強いのです。そして、この二つの動詞で自己憐憫に陥っているバビロン捕囚で意気消沈している民にチャレンジしています。この二つの渇望なしに将来と希望の約束はあり得ないからです。神の民が感情と理性で文字通り全身全霊で神を尋ね求めることによって神を「見出し」ます。ただし、「心を尽くして」「一心に」することが条件です。なぜなら、心を尽くして求める時に、主は「見出される」とあるからです。では、神を「見出す」とはどういうことでしょう。それは神のみことばを通して、神を知り、神のみおしえを通してそのすばらしさを味わい、神の深い心に触れることを意味します。みことばが開かれて神のみこころを悟り、そのみこころがなされることを祈り求めるようになることです。神との愛のかかわ りが深められて、それ を喜ぶことです。
                 (銘形「ヘブル語のディリー ブレッド」から一部引用」)

2024年5月25日土曜日

2024年05月26日 第4主日礼拝 知恵の決断

招詞
    主によって、人の歩みは確かにされる。主はその人の道を喜ばれる。 その人は転んでも、倒れ伏すことはない。主が、その腕を支えておられるからだ。正しい人の口は知恵を語り、その舌は義を告げる。                         詩篇37篇23~24、30節 

聖書箇所
使徒の働き6章1節~7

説教
知恵の決断 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/543 くつ(ナアール)を脱げ

 神は仰せられた。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物を脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」                      出エジプト記3章5節

 出エジプト記3章は偉大な神のしもべとして、イスラエルの民をエジプトから救い出したモーセの召命の場面です。モーセが神から召命を受けたのは80歳でした。そのモーセがシナイ山のふもとで不思議な光景を見たのです。その光景とは「燃えているのに燃え尽きない柴」でした。モーセはそこに近づこうとしたとき主の声を聞いたのです。「ここに近づいてはならない。あなたの履き物(サンダル)を脱げ。あなたの立っている場所は、聖なる地である。」
① これは、自分の権利、思いや考え、立場を捨てよという意味です。モーセ は40歳まで、エジプトの王室で王子たちと共に育ち、教育も受けまし た。それらを捨てよ、と主は言われました。
② また、奴隷の立場に立つことを意味します。履き物を履 けるのは自由人のしるしでした。名誉と誇りのしるしで す。奴隷や貧しい者は裸足で歩きました。したがって、 履き物を脱ぐということは、奴隷の立場に自分を置くことを意味します。 神のモーセに対する使命は、エジプトで奴隷となっている同胞を救い出す ことでした。それゆえ、リーダー自身が奴隷と同じ立場に身を置くこと を意味しています。
 2000年前、イエス・キリストは神であるにもかかわらず、そのあり方を捨てられ、ご自分を無にして、仕える者の姿を取って、人間と同じようになられました。この「しもべなるイエス」によって、私たちは罪の奴隷から救い出されたのです。
                    (銘形「ヘブル語のディリーブレッド」から一部引用」

2024年5月18日土曜日

2024年05月19日 第3主日礼拝 聖霊に押し出されて

招詞
 神は、われらの避け所、また力。苦しむとき、そこにある強き助け。 それゆえ、われらは恐れない。たといがは変わり、山々が揺れ動いても。たとえその水が立ち騒ぎ、泡立っても、その水かさが増し、山々が揺れ動いても。                     詩篇46篇1~3節

聖書箇所
使徒の働き2章1節~42

説教
聖霊に押し出されて 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/542 七週の祭り② (シャブオット)

 旧約聖書、レビ記 23:15~17によれば、「七週の祭り」では、主への初穂として新しい小麦粉にパン種を入れて焼いたパンを二個ささげなければならないということです。なぜ、パンを二個なのでしょうか。
 律法が、ユダヤ人と異邦人を隔てる壁になっていることをかんがみ、使徒パウロはエペソにいる異邦人クリスチャンに次のように手紙を書きました。
 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。              エペソ 2:14~16
 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。 エペソ 3:6
二つのパンをユダヤ人と異邦人を象徴するものとみると、シャブオットが、二つのパンが主に捧げられ、受け入れられる日として制定されたのは、時いたって、イエスの十字架で異邦人もまた、父なる神に近づくことができる者となった、ということができます。
                     (銘形「五旬節と聖霊降臨の秘密」より一部引用)

2024年5月11日土曜日

2024年05月12日 第2主日礼拝 ペンテコステ前夜

招詞
 わが神よ。私は、みこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは、私の心のうちにあります。私は大いなる会衆の中で、義を喜び知らます。ご覧ください。私はくちびるを押さえません。主よ。あなたはご存じです。                   詩篇40篇8~10節

聖書箇所
使徒の働き1章3節~26

説教
ペンテコステ前夜 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/541 七週の祭り ①(シャブオット)

 ユダヤ教では「過越の祭り」「七週の祭り」「仮庵の祭り」が三大祭ですが、キリスト教の三大祭は「クリスマス(聖誕祭)」「イースター(復活祭)」「ペンテコステ(聖霊降臨祭)」です。「ペンテコステ」は「クリスマス」や「イースター」に比べると、なぜか最も祭(まつり)性を感じない祝祭日です。「ペンテコステ」は約束の聖霊が注がれて教会が誕生した日にもかかわらず、他の二つの祝祭のように特別に祝われるということはありません。なぜなのでしょう。不思議です。
もうひとつ不思議なことがあります。それは、ユダヤ教では「クリスマス」も「イースター」も共に祝うことはありませんが、「五旬節」の日だけは、キリスト教と同じ日に祝うのです。祝っている内容は異なっているのですが、いつの時代であっても祝 う日(曜日)が同じなのです。しかも一日限 りの祭りです。いったい「七週の祭り」とは何なのでしょう。そもそも「七週の祭り」に秘められた預言的意味があるとす れば、それはいったい何なのでしょうか。次回、シャブオットの預言的な意味 を考えてみます。                 (銘形「シャブオット」から引用)

2024年5月5日日曜日

2024年05月05日 第1主日礼 信仰のみ

招詞
 わが神主よ、なんと多いことでしょう。あなたがなさった奇しいみわざと私たちへの計らいは。あなたに並ぶものはありません。語ろうとしても告げようとしてもおそれはあまりにも多くて数えきれません。                               詩篇40篇5節

聖書箇所
ピレモンへの手紙10節~13

説教
信仰のみ 佐藤弘司牧師(DVD説教)

言(こと)ローグ/540 詩篇77篇の4つの瞑想語 ④ハーシャブ(思い返す)

 夜には私の歌を思い起こし、自分の心と語り合い、私の霊は探り求めます。  詩篇77篇6節

 この節のリビングバイブル訳は、「あのころは、夜になると 喜びの歌が自然に口から出てきました。この、たましいのあまりにも大きな変わりようは、どうしたことでしょう。」です。
 詩篇77篇にある四つの瞑想語(    meditation)の一番目は、ヘブル語で、①ザーハル(思い出す)、二番目は、スィーアッハで、「思いを詰める」で、三番目は、ハーガー(思いを巡らす)でした。今回が最終回です。

 ハーシャブは、自分を吟味しながら、自分の思いや行いを反省する行為です。自分を客観的に見ています。霊性の回復の転換点です。6節は、リビングバイブル訳のように(遠い)昔の生き生きとして、あるいは嬉々として信仰生活をしていたころを振り返り、自分自身にため息をしている言葉です。10節には、ため息が主への疑いにつながる危険な状態が見て取れます。しかし、感謝なことに12節で信仰の回復の兆しをみることができます。11節は、(しかし)を挿入して読むとよく理解できます。ここから信仰は回復していきます。事実、原語のヘブル語には、ヴァー(しかし)があります。

(しかし)私は主のみわざを思い起こします。ーーーーー11節

 癌細胞は、1日で体の中で生まれ、ほとんどはその日のうちに死滅するとは医師の言(ことば)です。つまり、いくつかは生き残り、人をむしばみはじめます。サタンの攻撃は、心と霊を攻撃します。巧妙で、失望落胆の心に疑いの種を蒔く名人です。主の恵みをハーシャブし(思い起こし)、主に顔を向けましょう。恵みの雨を思い出しましょう。賛美の歌を口ずさみましょう。疑いの種を芽生えさせないように。

 以上、詩篇77篇の4つのデボーション用語を詳しくみました。
                         (銘形「ヘブル語コラム」から一部引用)

2024年4月28日日曜日

2024年04月28日 第4主日礼拝 聖書のみ

招詞
 主はこの口に授けてくださった、新しい歌を。私たちの神への賛美を。多くの者は見て恐れ、主に信頼するだろう。幸いなことよ。主に信頼を置き、高ぶる者や、偽りに傾く者たちのほうを向かない人。                               詩篇40篇3~4節

聖書箇所
イザヤ書3章20節~21

説教
聖書のみ 金田与施夫牧師(DVD説教)

言(こと)ローグ/538 詩篇77篇の四つの瞑想語 ③ハーガー(思いを巡らす)

 私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、 あなたのみわざを、静かに考えよう。 
                                    詩篇77篇12節

 詩篇77篇にある四つの瞑想語(meditation)の一番目は、ヘブル語で、①ザーハル(思い出す)、2番目は、スィーアッハで、「思いを潜める」でした。三番目は、ハーガー(思いを巡らす)です。
ハーガーは、昼も夜も、神のみわざや神のことばを継続的に思い巡らすことによって、思考を深め、熟成させる行為です。ほとんどの人性の問題やチャレンジは一過性ではありませんから、ハーガーすることで常に主に頼り、その副産物として信仰もより深められえていくと思います。
77篇は、作者不詳ですが、熟年のダビデの歌143篇と酷似しています。

 私は昔の日々を思い出し、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたの御手のわざを静かに考えています。                         詩篇143篇5節

 ダビデは、勇敢で正直者でしたが、サウル王の娘との結婚生活は破綻していました。イスラエルの王になってからは、バテシェバ醜聞を起こし、民の信頼を失いかけました。預言者ナータンの諫言(かんげん)で悔い改め立ち直ります。しかし、最大の試練は、愛息アブシャロムが自分を裏切り、クーデター未遂事件でダビデの命を奪おうとしてことでした。
詩1篇2節の「主の教えを喜びとし、昼も夜もその教えを口ずさむ。」もハーガーが使われていますが、以下のリビングバイブル訳は、ハーガーの深意を反映していると思います。
その人は、 主がお望みになることを何でも喜こんで行ない、 いつも、主の教えを思い巡めぐらしては、 もっと主のみそばを歩もうと考がえます。 リビングバイブル
次回は、④ハーシャブ(思い返す)です。      (銘形「ヘブル語コラム」から一部引用)

2024年4月21日日曜日

2024年04月21日 第3主日礼拝 恵みのみ

招詞
 見よ。主の目は主を恐れる者に注がれる。その恵みを待ち望む者に。私たちのたましいは主を待ち望む。主は、われらの助け、われらの盾。まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。                     詩篇38篇18,20~21節

聖書箇所
エペソ人への手紙2章8節~9

説教
恵みのみ 銭谷幸器牧師(DVD説教)

言(こと)ローグ/538 詩篇77篇の四つの瞑想語 ②スィーアッハ(思いを潜める)

 2苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。 3私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。 
                                   詩篇77篇2~3節

 詩篇77篇にある四つの瞑想語(meditation)の一番目は、ヘブル語で、①ザーハル(思い出す)でした。
 次の2番目は、スィーアッハで、「思いを潜める」です。苦難の時もじたばたしないで、座って、心を静めて、自分の心としっかり向き合う態度です。これは言うは易し行いは難しです。なぜなら、それは時には呻きや苦痛を伴う行為になります。
 10節では失望・落胆に疲れた筆者がついに、「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる。」 と主への不信を抱いてしまいそうになっています。しかし、読者は、次の11~12節で大きな安心を得て救われる気持ちになります。
 11節: 私は、主のみわざを思い起こそう。まことに、昔からのあなたの奇しいわざを思い起こそう。 12節 私は、あなたのなさったすべてのことに思いを巡らし、あなたのみわざを、静かに考えよう。
 デボーションという言葉があり、静思の時という意味です。KGK(キリスト者学生会)では、主事さんが、口を酸っぱくして「このエボ―ションを守りなさい、主とあなただけの時を守りなさい。それは、他人と関わる奉仕活動よりずっと大切です。これが、あなたが癖になるまで続けなさい」と指導されました。楽なことは、続けやすいですが、静思の時を身に着くまで続けるのは自己鍛錬が必要でしょう。決心して始めませんか?
 次回は、③ハーガー(思いめぐらす)です。    (銘形「ヘブル語コラム」から一部引用)

2024年4月14日日曜日

2024年04月14日 第2主日礼拝 見ないで信じる人たちは 幸いです

招詞
 全地よ 主に向かって喜びの声をあげよ。喜びをもって主に仕えよ。喜び歌いつつ御前に来たれ。知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの 主の民 その牧場の羊。
                                  詩篇100篇1~3 節

聖書箇所
ヨハネの福音書20章19節~20

説教
見ないで信じる人たちは幸いです 菅孝雄神学生

言(こと)ローグ/537 77篇の四つの瞑想語 ①ザーハル

 私は神に向かい声をあげて、叫ぶ。私が神に向かって声をあげると、神は聞かれる。 苦難の日に、私は主を尋ね求め、夜には、たゆむことなく手を差し伸ばしたが、私のたましいは慰めを拒んだ。私は神を思い起こして嘆き、思いを潜めて、私の霊は衰え果てる。  詩篇77篇1b~3節

 詩篇77篇には、四つの瞑想語(meditation)があります。ヘブル語で、①ザーハル、②スィーアッハ、③ハーガー、そして④ハーシャヴです。瞑想語とは「深く思索することば」の意味です。 ① ザーハルは、昔のことを一つひとつ思い出すという意味で、上記3節に使われています。記憶をたどりながら、心に呼び起こす行為です。新共同訳では、「思い続ける」、文語訳は「思い出流る」と訳されていいます。 一節には、神さまに声をあげて叫ぶと神は必ず聞いてくださるという確信が歌われますが、人生の苦難の日には、夜昼祈り求めても手ごたえが感じられずに、自分の霊は衰えしぼむ経験を歌っています。ザーハルは、「神の良くしてくださったことを数えよ、何一つ忘れるな」(103篇2節)という信仰体験を思い起こし、自分を元気づけようとすることばです。 苦難の嵐に会うと、神さまは自分を忘れたのではないか、祈り続けても無駄ではないか、などとぼやきたくなります。それは、不信の罪です。まず、身に起きた事実を見ましょう。自分は、イエスさまを信じて、永遠の死を逃れて救いを得ました。さらに永遠のいのちをいただいています。だから今を生きるための力を心と身に帯びています。生ける望みを与えていただいて今日も前に進むことができます。 次回は、②スィーアッハです。      (銘形「ヘブル語コラム」から一部引用)

2024年4月7日日曜日

2024年04月07日 第1主日礼拝 二人の弟子も

招詞
 ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。                          ローマ人への手紙12章1節

聖書箇所
ルカの福音書24章13節~43

説教
二人の弟子も 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/536 二つの現在命令


 この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。                ローマ人への手紙12章2節


 2節には二つの命令形があります。一つは「調子を合わせるな」と、もう一つは「(心を新たにすることで)変えていただきなさい。」で、どちらも現在命令形です。ギリシャ語の現在命令形は、常に・・し続けなさいという継続命令です。新改訳2017は「心を新たにすることで、自分を」とありますが、ここでの「心」とは、心情や感情のことではないので注意しましょう。ギリシア語の心(ヌース)も、ヘブル語訳の心(レーヴ)も、知性や考え、思考を意味します。つまり、「心を新たにする」とは感情だけでなく、思考の座標軸を神さま中心に移すことを意味します。変動する時代精神によってみことばを解釈せず、本来の神の概念をもって解釈する(受け取る)ことを自分に課すことです。前節の12章1節(招詞)とともに、自分力でなく、イエスさまに頼り、ご聖霊の助けで成しうることですね。       (銘形「ハヌカー」の今日的意味より一部引用)

2024年3月31日日曜日

2024年03月31日 第5主日礼拝 イースター・召天者記念礼拝 イエスは復活された

招詞
 わたしイエスは、あらゆるものの初めてであり、また終わりである。キリストの十字架の血によって清められ、永遠の命が与えられ、神の都に入ることができる者は、幸いである。(現代訳)
                            ヨハネの黙示録22章13~14節

聖書箇所
ルカの福音書24章1節~12

説教
イエスは復活された 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/535 死んでも生きる

 イエスは彼女(マルタ)に言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」
                            ヨハネの福音書11章25~26節

 マルタの兄弟、ラザロは病死して岩山の洞窟の墓に入れられ数日経っていました。そこにイエスがやって来ました。イエスは、死を打ち破って永遠のいのちを与えることができる方です。「永遠のいのち」とは、イエスを信じる者に、信じた瞬間に与えられるもので、ただ単に時間的に長いという意味ではなく、時間を超越した、質的にも新しいいのちのことです。
 ですから、イエスを信じる者は、今の肉体が死んでも、イエスと同様によみがえって、永遠のいのちに生きることができるのだと教えています。
 ところで、「このことを信じますか?」は、マルタに向けて問われ、マルタは、「信じます」と答えました。その直後、ラザロは生き返って洞窟から出てきます。近所の人々は、驚き、死者を復活させる力のあるイエスを信じました。イエスのが十字架にかかる前のできごとですが、死者を復活させる力のあるお方であることを示されました。 この場面は、直接にはマルタに語られた言葉でしたが、今の21世紀を生きる私たちにも投げかけられている信仰を問う質問です。「あなたは、このイエスを信じますか。」

2024年3月24日日曜日

2024年03月24日 第4主日礼拝 十字架上のイエス

招詞
 主よ、あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように。わが神、主よ、私は心を尽くしてあなたに感謝し、とこしえまでも、あなたの御名をあがめます。                詩篇86篇11~12節

聖書箇所
マルコの福音書15章21節~47

説教
十字架上のイエス 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/534 クレネ人 シモン ②

 兵士たちは、通りかかったクレネ人シモンという人に、イエスの十字架を、無理やり背負わせた。かれはアレクサンドロとルフォスの父で、田舎から来ていた。 マルコの福音書15章21節

 マルコの福音書では正確にその息子たちの名前を記しています。二人の息子の名前は「アレキサンドロ」、そして「ルフォス」です。後者の名前は使徒パウロがローマの教会に宛てた手紙の中に登場します。ヤコブの息子シメオンは、乱暴で良い兄弟ではなく信仰的に負の遺産を持つ者でした。しかし、シモンという名前が、ルカの福音書では意図的とも言えるほどに多出しています。
  (1) エルサレムの老シメオン
  (2) ガリラヤで召命を受けた弟子のシモン・ペテロ 
  (3) ガリラヤのパリサイ人シモン 
  (4) クレネ(地中海)人でイエスの十字架を背負ったシモン 
  (5) サマリヤの魔術師シモン 
  (6) ヨッパの皮なめしのシモン 
  (7) アンテオケのニゲル(アフリカ)と呼ばれたシメオン⇒これが「クレ ネ人シモン」と同一
    人物。
 このように、福音宣教の重要な場所(拠点)には必ずや「シモン」(シメオン)が存在しています。聖書の中に、これほどに「シモン」という名が記されていることは、神の救いのマスタープランにおいて、創世記の時代から疎んじられ、散らされていたシメオン族の子孫が、再び集められ、歴史の舞台に登場しています。これは、負の遺産を持つシモンの名誉挽回であり、私たちに対しては、逆転人生の可能性を見せてくれています。      (銘形 「ルカの福音書の瞑想」より一部引用)

2024年3月16日土曜日

2024年03月17日 第3主日礼拝 イエスのエルサレム入城

招詞
 まことに、神である主は太陽、また盾。 主は恵みと栄光を与え、誠実に歩む者に良いものを拒まれません。 万軍の主よ、なんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。
                                 詩篇84篇11~12節

聖書箇所
マタイの福音書21章1節~11

説教
イエスのエルサレム入城 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/533 クレネ人シモン

 彼ら(兵士たち)は、イエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスの後から運ばせた。     ルカの福音書23章26節

 シモンのヘブル語はシメオンです。新約聖書では、イエスの両親が幼子イエスを主にささげるためにエルサレムに連れて行った時、シメオン老人が幼子イエスを見て腕に抱いて神をほめたたえました。新約聖書には、実に多くのシメオン=シモンと名乗る人物が登場します。シメオンはシェマー(聞く)から来ていてその名前に隠されている意味は「御子に聞く」ということです。
シモンは「無理やり」(=強制的)ではありましたが、イエスの後を、十字架を背負ってついて行きました。ルカはこの場面をわざわざイエスの「後から運ばせた」(ルカ23:26)と記しています。ここに「御子に聞き従う」というシモンの名の本質が描かれています。そのシナリオを描いたのは、他ならぬ神ご自身なのです。シモンに倣い、主に心から聞く者とさせていただきましょう。

自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。
                                ルカの福音書14章27節                
                            (銘形「マタイ3」より一部引用)

2024年3月10日日曜日

2024年03月10日 第2主日礼拝 神の時に生きる

招詞
 万万軍の主よ、 なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり、 心の中に、シオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉の沸く所とします。
                                 詩篇84篇1a、5~6節

聖書箇所
伝道者の書3章1~22節

説教
神の時に生きる 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/ 532 イエスと歌う賛


 彼ら(イエスと弟子たち)は、旧約聖書の詩篇115篇以下の賛美歌を歌ってから、オリーブ山に出掛けて行った。                 マタイの福音書 26章30節 (現代訳)

 過ぎ越しの食事の締めくくりが、この詩篇の賛美でした。過ぎ越しの食事では、113篇あるいは118篇も良く用いられたので、そちらだったかもしれません。注目すべきことは、イエスさまが弟子たちと一緒に賛美歌を歌ったことを記す貴重な箇所だということです。ユダヤ人の福音書と言われるマタイと最も早く書かれた福音書と言われるマルコに記されています。以下、彼らが暗誦していたはずの詩篇115篇16~18節です。

「天は主のもの、地は人にゆだねられた。死んでしまえば、主を賛美することはない。私たちは、今からとこしえまで主を称賛しよう。主をほめたたえよう。」           (現代訳)

1テサロニケ4:13~18には、死者の復活と生きている信者たちの空中携挙、そしてそれに続く千年王国と、教会時代のクリスチャンである私たちには特別意味のある預言が書かれています。私たちは主イエスさまと対面で出会い、毎日、賛美に明け暮れることができます。
その前味をこの時の弟子たちは体験しました。イエスさまの公生涯の最後は激動の2週間で、受難に至る記事が満載されています。過ぎ越しの祭りの1週間もイエスを亡き者にしようとする反対者たちの暗躍が見られました。
ヨハネの福音書13章には、洗足の記事があります。今週、じっくり読んでみましょう。イエスは、十字架の苦難を予見しつつも、顔には出さず、弟子たちにご自分の愛を余すことなく伝えようとされた(13:1)のです。

2024年3月3日日曜日

2024年03月03日 第1主日礼拝 教会の過去・現在・未来

招詞
 万軍の主よ、あなたの住まいは、なんと慕わしいことでしょう。 私のたましいは、主の大庭を恋い慕って、絶え入るばかりです。私の心も身も、生ける神に喜びの歌を歌います。 
                                   詩篇84篇1~2節

聖書箇所
コロサイ人への手紙1章21節~2章7

説教
教会の過去・現在・未来 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/531 レント2 もっと善いもののために

 人の子は、多くの苦しみを受け、長老たち、祭司長たち、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日目によみがえらねばならない、と語られた。 イエスは、皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしについて来なさい。 」 
                              ルカの福音書9章22~23節

 レントとは復活祭に先立つ40日間(日曜日を除く)で、神にもう一度立ち返る期間、自省と悔い改めの期間、祈りとみことばと断食などを通して、改めて自分を主に捧げ直す期間です。伝統的には、イエスが荒野に退いて試みを受けられた40日間に合わせて、この期間は何らかの食べ物や活動などを節制することがなされてきました。
また、レントに断食したり、何らかのものを手放したりするのは、自分に苦行を課すことが目的ではなく、もっと善いもののために、時間と場所を作るためだとも言えます。たとえば、昔、便利な「チン」はもちろん、ガスも無い時代に料理にかけていた時間を減らすために婦人たちが肉料理を少なくすることなどで御言葉をより深く味わうとか、男性も自分が多くの時間を費やしている活動(趣味も)を制限することで、さらに祈りに時間を費やしていました。
今年のレントはすでに半分ほど過ぎていますが、3/31のイースターまでまだ4週間あります。この期間、私たちの罪のために十字架につけられたイエス様の受難を思いつつ、自らを振り返り、自分の生活の中で主に立ち返るよう招かれている領域がないか、祈りをもって思い巡らしてみてはいかがでしょうか。                (中村佐知<JCFN理事>のブログより一部引用)

2024年2月25日日曜日

2024年02月25日 第4主日礼拝 教会の大賛歌

招詞
 あなたのほかに、天では私にだれがいるでしょう。地では、私はだれをも望みません。この身も心も尽き果てるでしょう。しかし、神は私の心の岩、とこしえに、私が受ける割り当ての地。
                                 詩篇73篇25~26節

聖書箇所
コロサイ人への手紙1章15節~20

説教
教会の大賛歌 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/530 灰の水曜日

 イエスは(悪魔に)答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」               マタイの福音書4章4節

 灰の水曜日は、起源は定かではありませんが、教会暦の受難節(レント)の初日を言います。今年のイースターは、3月31日ですが、日曜日を除く40日前が灰の水曜日で2月14日でした。イエスさまは、公生涯の活動の直前、ヨハネからバプテスマを授けられた後、40日間荒野(砂漠)で水だけで過ごす断食の時を過ごされました。そこで、悪魔の誘惑に遭い、上記の言葉で反撃されました。灰は、旧約聖書時代から悔い改めのシンボルで、当初、信仰や教会から離れた人が教会の交わりに戻る際の反省の儀式の1つとして棕櫚の葉を燃やした灰を使用していたことが由来でした。私たちは、日々、間違いを犯しやすいもので、悔い改めが必要です。ただ、灰は必要ありません。次の聖書のみ言葉に聞き従うことで十分ですね。

 「もし、私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。」          ヨハネの手紙 第一1章9節

2024年2月18日日曜日

2024年02月18日 第3主日礼拝 教会の三つの祈り

招詞
 私は多くの人にとって奇跡と思われました。あなたが私の力強い避け所だからです。私の口にはあなたへの賛美が、あなたの栄えが絶えず満ちています。         詩篇71篇7~8節

聖書箇所
コロサイ人への手紙1章9節~14

説教
教会の三つの祈り 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/529 史実のイエス・キリスト

 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。     ヨハネの福音書3章16節

 歴史に刻まれた事実、すなわち十字架のキリスト、復活のキリスト、ペンテコステの聖霊降臨こそ、救いの中核的できごとです。このどれが否定されても、福音は福音でなくなり、教会は教会の意味を無くし、キリスト教は絶対的な真理の教えではなくなります。「ここに救いがある」、と言えなくなってしまいます。
世界の宗教は、教祖あるいは宗祖の教えが信仰と生活の土台です。史実はあいまいでも気にしません。それに反して、キリスト教では何よりも史実を大切にします。イエスの教えの重要さと並行して土台になっているのは、聖書の預言の成就として、キリストの処女降誕、3年間の公生涯での教えとみ業、十字架の死と復活と顕現、そして昇天です。
一世紀末に、この史実を曲げるグノーシス派を筆頭に異なる偽キリスト教が教会を悩ませていた時に、聖霊は90歳超えの老使徒ヨハネを奮い立たせました。パトモス島に幽囚されていたヨハネが福音書を書き、諸教会に送り励ましました。イエス・キリストは、天地創造の神と共におられた方であり、この福音書の執筆から60年前に実在され、自分も3年間従った方として繰り返し書き留めています。別の偽キリスト教は21世紀の今も幅をきかせています。聖書をしっかり読み、惑わされないように結束していきましょう。     (岸義紘「福音とはキリスト」より一部引用)

2024年2月11日日曜日

2024年02月11日 第二主日礼拝 信仰・愛・希望の教会

招詞
 神よ。諸国の民があなたを、諸国の民がみな、あなたをほめたたえますように。神が私たちを祝福してくださり、地の果てのすべての者が、神を恐れますように。     詩篇67篇5、7節

聖書箇所
コロサイ人への手紙1章1節~8

説教
信仰・愛・希望の教会 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/528 愛せよ アガパオ―

 (聞け、イスラエルよ)。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。                           申命記 6章5~7節
イエスは彼に言われた。『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』 これが重要な第一の戒めです。     マタイの福音書 22章37~38節

 日本語の聖書で”愛”と表記されている箇所では、実は新約聖書(ギリシャ語)では、次の4つの単語が使われています。エロース、フィリア、ストルゲー、そしてアガペーの4つです。
エロースは性愛、フィリアは友愛、ストルゲーは家族愛で、神が人に備えてくださったものです。ただ、アガペーだけぴったりした日本語に訳しづらく、強いて言えば、無条件の愛ですが、翻訳では愛とだけ訳出されます。アガペーの愛は、対象に条件はありません。また、見返りなども全く期待せず、ただ相手の利益になる事だけを考えて行動します。旧約では、ヘブル語アハバーが、アガペーとほぼ同意です。上記、申命記では、アハバーがマタイではもちろんアガパオー(アガペーの動詞形)です。さて、私たちの中には、無条件で神さまや人を愛する愛はありません。しかし、イエスさまを信じて救われているので、ご聖霊の神がイエス様と父なる神さまの愛を反映させてくださいます。月はそれ自体では光を放ちませんが、太陽光を反射して地球を明るく照らしていますが、これと似ています。曇りないイエスさまへの信仰で神の愛の光をしっかりと反射できる生活をしていきましょう。

2024年2月4日日曜日

2024年02月04日 第一主日礼拝 教会の危機:禁欲主義

招詞
 どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に、照り輝かしてくださるように。あなたの道が地の上で、御救いが、すべての国々の間に知られるために。   詩篇67篇1~2節

聖書箇所
コロサイ人への手紙2章16節~23

説教
教会の危機:禁欲主義 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/527 聞け、イスラエル(シェマー・イスラエル)2

 (聞け、イスラエル!)。心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くしてあなたの神、主を愛しなさい。今日私が命じるこれらの言葉を心に留めなさい。そして、あなたの子どもたちに繰り返し告げなさい。家に座っているときも、道を歩いているときも、寝ているときも、起きているときも唱えなさい。                          申命記6章5~7節 新共同訳

 「愛しなさい(アハブター)」という命令は、当時、宗主国が属国に対して使った言葉でした。そこでは、愛とは単純に感情だけを意味するものではなく、愛するという言葉の中に具体的な行動が伴うということを意味しました。つまり「属国が宗主国を愛せよ」と言った場合、その愛とは忠誠心や誠実さを意味するのです。同じように「主を愛せよ」とは、主の恵みに対する忠実さ、恵みに対する応答が要求されている訳です。ユダヤ人は、これを文字通り実践し、朝の祈りの時には、ティフィリンという、小さな皮の箱を額に着けています。この箱の中には、上記の申命記などのみことばが書かれたものが入っています。私たちは、「神が御子を遣わしてくださり、主イエスの十字架の死と復活によって、私たちの罪を赦し、永遠の命を与えて下さった」ことを信じています。そのことを日々心に刻み、主イエス・キリストを心から愛し、仕えていきたいものです。

2024年1月27日土曜日

2024年01月28日 第四主日礼拝 ローマで: 感激と落胆

招詞
 神よ。まことに、あなたは私たちを試し、銀を精錬するように、私たちを練られました。私たちは、火の中、水の中を通りました。しかし、あなたは私たちを、豊かな所へ私たちを導き出してくださいました。                         詩篇66篇10、12b節

聖書箇所
使徒の働き28章11節~31

説教
ローマで: 感激と落胆 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/526 聞け イスラエル(シェマー・イスラエル)

 聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主はただひとりである。     申命記6章4節

 このフレーズで最も重要な箇所は、最初の「聞け(シェマ)」と最後の「唯一の(エハード)」です。そこには、イスラエルの民が唯一の神のみを神とし、主として仰いでいこうとする決意が込められているのです。
イスラエルの民は、この命令をきわめて重要視し、長い世代にわたって、その重要性を体験的に子孫に伝え残していくために、一つの習慣を生み出しました。その習慣とは、6章4節を一息で、息の続く限り伸ばし、息が切れて声が出なくなるまで引き伸ばして読むのです。このことによって、息の続く限り、いのちのある限り、「主は私たちの神、主はただひとりである」という信仰を表明しようとしているのです。
私たちの生存と防衛(あらゆる守り)の保障を唯一の神である主以外に求めるなら、それは自動的に偶像礼拝となってしまいます。「神である主は唯一である」という真理、あるいは、世界中で「主イエス・キリストの他には救われるべき名はない」(使徒 4:12)とする排他的真理は、私たちの旗印で、悪魔が最も嫌うものです。    (銘形:ヘブル語のディリーブレッドより一部引用)

2024年1月21日日曜日

2024年01月21日 マルタでの奇蹟

招詞
 国々の民よ、私たちの神をほめたたえよ。神の誉れをたたえる声を響き渡らせよ。神は、私たちのたましいを、いのちのうちに保ち、私たちの足を揺るがされない。    詩篇66篇8、9節

聖書箇所
使徒の働き28章1節~15

説教
マルタでの奇蹟 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/525 見つけ、見いだされる

 あなたがたがわたしを捜し求めるとき、心を尽くしてわたしを求めるなら、わたしを見つける。わたしはあなたがたに見出される。              エレミヤ書29章13~14節

 預言者エレミヤが、イスラエルの王と王族、祭司、偽預言者、すべての民に語った言葉です。当時、偶像礼拝の罪にまみれ、彼らの霊性は地に落ちていました。エレミヤのような真の預言者、祭司たちは少数派でした。
 13節と14節前半では、神の民が神を尋ね求めることによって神を「見出し」、しかも心を尽くして求めることで、主は「見出される」とあります。
神を「見出す」とはどういうことでしょう。それは神のみことばを通して、神を知り、神のみおしえ(みことば)を通してそのすばらしさを味わい、神の深い心に触れることを意味します。羊皮紙に書かれた聖書(モーセ五書=律法)が開かれて神のみこころを悟り、そのみこころがなされることを祈り求めるようになることです。
私たちにとっても、神との愛のかかわりが深められて、それを喜ぶこと・・。これらが「神を見出す」ことの意味です。           (銘形:ヘブル語のディリーブレッドより一部引用)

2024年1月14日日曜日

2024年01月14日 12歳のメシア・イエス

招詞
 幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住む人は。私たちは、あなたの家の良いもの、あなたの宮の聖なるもので満ち足ります。私たちの救いの神よ。あなたは恐るべきみわざで、義のうちに私たちに答えられます。あなたは、地のすべての果て、遠い大海の信頼の的です。                                詩篇65篇4~5節

聖書箇所
ルカの福音書2章40~52節

説教
12歳のメシア・イエス 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/524 よりすぐれた献げもの

 信仰によって、弟のアベルは兄のカインよりも優れたささげ物をし、彼が信仰によって生きていたことが実証された。神が彼のささげ物を受け入れられたからである。アベルは死んだが、信仰によって生きることを、今でも私たちに教えてくれる。   ヘブル人への手紙11章4節 現代訳

 創世記4:1~13によると、アベルは、妬みにかられた兄のカインによって殺され、短い人生だったと記されています。しかし、上記、ヘブル書では、アベルの地上での生涯は悲惨に終わりましたが、その人生はとても価値ある生涯だったのです。決して空しく終わることのない生涯であり、それは「神を恐れる」ことによってのみもたらされることを教えています。あの栄華を窮めた王、この世の最高の知恵者ソロモンは、この世のすべての良いと思う事を手にしてもなおむなしいと嘆息し、信仰がなければすべて空しいと結論づけました(伝道者の書 1:2)。アベルは、短い生涯でしたが、生きている間、信仰によって歩む生涯の大切さをすでに悟り、後世の私たちにも語っています。よりすぐれたものを神に、というアベルの信仰に習いましょう。

2024年1月7日日曜日

2024年01月07日 第一主日礼拝 新年礼拝 シメオンの幸い

招詞
 幸いなことよ。あなたが選び、近寄せられた人、あなたの大庭に住むその人は。私たちは、あなたの家の良いもの、あなたの宮の聖なるもので満ち足ります。私たちの救いの神よ。あなたは恐るべきみわざで、義のうちに答えられます。あなたは、地のすべての果て、遠い大海の、信頼の的です。                                詩篇65篇4~5節

聖書箇所
ルカの福音書2章22節~35

説教
シメオンの幸い 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/523 主に(エト・アドナイ)

 私と私の家族とはあくまでも主に仕える。  ヨシュア記 24章15節(リビングバイブル)

 この聖句の大事な点は、単に私個人が「主に仕える」というだけでなく、15節にあるように、「私と私の家(家族)とは、主に仕える」という、家族ぐるみで、主体的・自覚的な信仰をもって、主を礼拝し、仕えるという告白です。しかし、言うは易し、行いは難しです。この取り組みがいかに大事業で、緊急な課題であるかを自覚しなければなりません。
申命記6章は、確認の言葉です。「私がきょう、あなたに命じるこれらのことばを、あなたの心に刻みなさい。これをあなたの子どもたちによく教え込みなさい。あなたが家にすわっているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。これをしるしとしてあなたの手に結びつけ、記章として額の上に置きなさい。これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。」(6:6~9)。ユダヤ人の子供たちは今でも、5歳からトーラー(モーセ五書)を学び、12歳ではトーラーの解釈である「ミシュナー」を学びます。しかも膨大な神のことばを記憶するように教育されるのです。ところで、冒頭のエト・アドナイのエトは、アルファベットの最初の文字(アーレフ)と最後の文字テットから成っています。初めから終わりまで、徹頭徹尾主に仕えるの「主に」を強調するのに相応しい前置詞だと思います。
                   (銘形「ヘブル語デーリーブレッド」から部分引用)