2016年1月10日日曜日

2016年01月10日 第2主日礼拝 退修と奉仕

招詞
知れ。主こそ神。主が、私たちを造られた。私たちは主のもの、主の民、その牧場の羊である。
                                                詩篇100篇3節                       
聖書箇所
ルカの福音書 9章7~17節

説教
退修と奉仕 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ41/退修会(リトリート)と修養会
退修会と修養会はどう違うのでしょうか。ある説明には、「退修会とは、日常業務からしばらく退いて、祈り、学びあう修養会のことです。」とありました。本当にそうなら、退修会と呼ぶよりも、普通に修養会とか教会研修会のほうがわかり易いかな、と思います。退修(リトリート)は、もともとは軍隊用語で、日常の任務を離れ、研修のような知的な学習からも離れ、自然に囲まれたところで、スポーツを含めて心をリラックスさせる時、と定義されるようです。米軍などでは、強制的にリトリートの場に送られるようです。もちろん、個人の休暇とは別に取ります。
 教会の退修会の場合、「日常の義務からしばらく退いて、祈り、聖書を読み、神さまとみことばを瞑想し、また分かち合う時」と言えると思います。 せっかく2~3日もとって集まるのだから、◎◎先生をお呼びして学びましょう、となりやすいのは日本人クリスチャンだけではありません。現代病といわれる症状は、何かして結果を出す、蓄積する、と考えることでょう。生産性(プロダクティビティ)がいつでも優先にされます。つまり行動 (DO ドゥ)と結果第一主義です。
 イエスさまの退修は、奉仕を離れて、静かなところで、神と交わる(祈る)ことでした。行動に対して、神の子「である」 BE(ビー)であることを楽しまれました。クリスチャンもまた、聖書を読み、神の子となった自分を見つめ、神さまを考え(瞑想)る者です。
 DO(ドゥ)が活動する動詞と呼ばれるのに対し、「である」 は、状態動詞とも呼ばれます。私たちは、クリスチャンとして奉仕や何かする前に、神の子となっている事実(状態)を意識的に感謝できる環境に自分を置くことが重要です。そうでないと、行動ばかりで、奉仕疲れが出て、燃え尽きてしまうこともあります。人を批判的に見てしまうのも、行動型の人の弱点です。ルカの福音書10:41~42に、マルタとマリヤ姉妹のことが記されています。マリヤは、怠け者ではなかったでしょうが、周りが弟子たちでガヤガヤしていても、主の前に座り、静まって主のみことばに傾聴できる「特技」をもっていました。まるで姉のマルタとともに接待するのを忘れたかのようでした。「傾聴力」です。私たちも、傾聴力を磨き、日常生活の中で、イエスさまのことば、聖書のことばに傾聴し、瞑想できるスポットを見つける工夫が必要かと思います。「どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。」(同42節)