2016年3月6日日曜日

2016年03月06日 第1主日礼拝 あなたの隣人は

招詞
心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する」ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。                 マルコの福音書 12章33節
                    
聖書箇所
ルカの福音書 10章25~37節

説教
あなたの隣人は 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ49/「深く憐れむ  スプランクニゾマイ」
「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い」(ルカ10:33)の 「かわいそうに思って」という感情は、イエスにのみ使われている語彙で、神の「深いあわれみ」をあらわす動詞「スプランクニゾマイ」です。他の箇所では、マタイ9:36、14:14、15:32、18:27、20:34、マルコ1:41、6:34、8:2、9:22、ルカ7:13、15:20に見ることができます。祭司は、レビ族から選ばれる世襲制でしたから、神の愛と赦しの儀式を代行していた人たちです。しかし、2人とも心を閉ざして、この哀れな人の横を過ぎて行きます。この人への愛は、自分のことは放り出して、「かわいそうに思い」かけよる愛であり助けるべき愛です。自分が損する愛、自己犠牲の愛です。そういう愛は、人は本来持ち合わせていません。この愛の源は、神の愛でなければなりません。この哀れな助けを必要とする人の横を通り抜けて行った人たちは、実地で神の愛を受け、人々の模範として神の愛を示す者でなければなりませんでした。しかし、「かわいそうに思う」心は、高ぶった人の心には存在しません。神の愛は、人が憐れみの心をもつための源泉であり、力です。神の愛を経験している者は、 サマリヤ人でも、敵視していたユダヤ人を助けることができます。ですから、イエスさまは、この律法の先生に「あなたも行って同じようにしなさい」(ルカ10:37)と、実地体験を勧めました。彼は、その試験にパスしたでしょうか。私たちは、試験に合格できるでしょうか。  (銘形 「律法の読み方」より一 部引用)