招詞
だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義をける。 詩編 24篇3~5節
聖書箇所
だれが、主の山に登りえようか。だれが、その聖なる所に立ちえようか。手がきよく、心がきよらかな者、そのたましいをむなしいことに向けず、欺き誓わなかった。その人は主から祝福を受け、その救いの神から義をける。 詩編 24篇3~5節
聖書箇所
エペソ人への手紙 2章11~18節
説教言(こと)ローグ203/みこころ(セレーマ)
「神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」 エペソ人への手紙 1章5節
セレーマは、「~したい」という自分の「意志」や「願い」や「要求」を表す語で、神が、私たちを愛しているがゆえに、私たちのためになさりたい強い意志が込められています。セレーマが使われている個所としては、以下の例があります。
「みこころが天で行われるように地でも行われますように。」 マタイの福音書 6章10節
「天におられるわたしの父のみこころを行うものはだれでも、
わたしの兄弟、姉妹、また母なのです。」 マタイの福音書 12章50節
「この小さなものたちのひとりが滅びることは、天にいます
あなたがたの父のみこころではありません。」 マタイの福音書 18章14節
イエスの警告の中にも使われています。
「わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな御国にはいるのではなく、
天におられるわたしの父のみこころを行うものが入るのです。」 マタイの福音書 7章21節
イエスでさえも、父のセレーマを第一になさいました。
「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、
どうぞみこころのとおりをなさってください。」 マタイの福音書 26章42節
上掲のように、エペソ人への手紙1章5,9節では、好意や善意、神の喜びとするところのご計画を意味する「みむね(ユードキア)」とセットで用いられています。私たちを救ってくださった神さまは、ご自身の好意と喜びとのセットでみこころを示してくださっています。その幸せを味わいましょう。 (銘形 「エペソ書の重要語彙」より引用)