招詞
いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。 詩篇91篇1~2節
聖書箇所
いと高き方の隠れ場に住む者は、全能者の陰に宿る。私は主に申し上げよう。「わが避け所、わがとりで、私の信頼するわが神」と。 詩篇91篇1~2節
聖書箇所
エペソ人への手紙6章10~14節
説教言(こと)ローグ/260 弱さと謙遜 ②
万軍の主。私の王、私の神よ。なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らは、いつも、あなたをほめたたえています。 詩篇84篇3b~4節
ダビデにとって最善のことは「主の家に住むこと」(ヤーシャヴ)でした。「主の家に住む」とは、なにかの活動をするということではなく、ひたすら、主の家にくつろぎながら、主のすばらしさを知るということです。主の愛、主の恵み、主のいつくしみに触れ続けることです。主とのゆるぎない愛のかかわりを築くことでした。
ダビデの霊性のキーワードである「主の家に住む」を、新約聖書のことばで言い換えるならば、三つのキーワードをつくることができます。
1. 「キリストのくびきを負うこと」マタイ11:29
2. 「キリストのうちにとどまること」ヨハネ15:5
3. 「謙遜の限りを尽くして、主に仕える」 使徒20:19
この使徒の働きの20章19節は、パウロがエペソ教会の長老たちに語った決別説教の最初のことばです。
「謙遜の限りを尽くす」とは、謙遜を学び続けることにつながると思います。英語では、謙遜を身に着けることを、ラーン・ヒューミリティ(謙遜を学び続ける)と言うのもうなずけますね。そして、弱さを認めた人が謙遜を学んでい杭ことができる人だと思います。
さて、聖書の中で「謙遜の限りを尽くして仕えた」人を探すと、第一は、イエスさまです。神の御子であられることを捨てて、権力も財力も無い、若者ヨセフとマリアに身を委ねられましたし、公生涯では、権力者たちに卑しめられ侮られます。しかし、イエスさまは、み父との交わりの中で最後まで、静かな平安をもっておられました。
私たちは御子イエスを通して「謙遜の奥義」を知り、そしてその祝福を生きるように招かれているのではないでしょうか。 (銘形:「謙遜への招き」を一部引用)