2018年7月15日日曜日

2018年07月15日 第3主日礼拝 新しい人と光の子ども②

招詞
どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、御顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。
                                   詩篇67篇1~2節

聖書箇所
エペソ人への手紙5章8~14節

説教
新しい人と光の子ども② 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ/244 弱い者

 神は神々の真ん中で、さばきを下す。 弱い者とみなしごとのためにさばき、悩む者と乏しい者の権利を認めよ。 弱い者と貧しい者とを助け出し、悪者どもの手から救い出せ。
                                 詩篇82篇 1、3~4節

 モーセ五書の申命記においては、今日においても驚くような福祉社会の理念が神によって基礎づけられています。その理念の中心は、弱い者たちの立場が擁護されてことです。詩篇の中でもこの理念によって生きる共同体としての神の民の喜びと悲しみが描かれています。
 旧約聖書を学び、親しんだパウロの手紙も、社会的弱者が教会で自由に活躍すべきであると書いています。ご聖霊がパウロに書かせた新約聖書の中の名文です。

 「それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。・・神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。それはからだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。」
                           コリント第一12章22, 24~25節

 教会をからだとしてたとえ、共同体における弱い部分、劣った器官の存在の価値とその意義を教えています。今日的表現を使うなら、身体的、あるいは知的ハンディを持つ人々と言えます。あるいは、強い人に対する弱い人、健康な人に対する病気の人など、ハンディで苦しんでいる人々といえます。しかし、実は、そのような存在こそ「からだを調和させ、各部分が互いにいたわり合う」ために必要不可欠なのです。自分を見れば、失敗もし、弱さを認めざるを得ない者たちです。日々の歩みのなかで、「本当にそう思っていたわり合う」教会の交わりを深めていきたいものです。
                       (銘形「詩篇瞑想のための手引き」より引用)