招詞
(イエスは)ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。 ルカの福音書24章6~7節
聖書箇所
(イエスは)ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえらなければならない、と言われたでしょう。 ルカの福音書24章6~7節
マタイの福音書28章1~10節
説教言(こと)ローグ/331 心を開かせる (ディアノイゴー)
そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて、こう言われた。「次のように書いてあります。キリストは苦しみを受け、三日目に死人の中からよみがえり、その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。あなたがたは、これらのことの証人です。」 ルカの福音書24章45~48節
イエスの復活をすぐには信じない弟子たちもいました。聖書(旧約)とイエスの教えを悟っていなかったからです。上記、復活後のイエスの顕現のカ所には、悟らせるために「心を開かせる」必要があった、心を「開く」と訳された原語は「ディアノイゴー」です。このことばは、「ディア(閉じたまぶたを引き離す)」+「アナ(再び)」+「オイゴ―(開く)」から成っている合成語です。エマオの二人の弟子たちの目が「開かれ」、イエスだとわかった(24:31)や、「主はルデヤの心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた(使徒16:14)など、心を開くという意味は、聖書の知的理解を促すことばです。主によって心が開かれなければ、聖書を悟ることはできないことを教えられます。「心が開かれる」ことと、「知恵と啓示の御霊が与えられること」とは同義です。
(銘形「ルカの福音書の瞑想」より引用)