招詞
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 ピリピ人への手紙2章6、8節
聖書箇所
キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。 ピリピ人への手紙2章6、8節
ルカの福音書23章33~38節ほか
説教言(こと)ローグ/330 ピラトの尋問
ピラトは、またユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私は、あの人(イエス)には罪を認めません。 ヨハネの福音書18章38節
信仰告白(使徒信条)の中には、ローマ総督ピラトの名前があり、私たちの教会では毎週礼拝の中で唱えられる名前です。十字架の金曜日の朝、ユダヤ最高議会の訴えの中でピラトは何に関心を持ったのでしょうか。
彼が関心をもったのは、イエスが自分をキリストだと言っているという訴えではありませんでした。ピラトが真に関心を持っていたのは、イエスが最後議会から死刑を要求されるほど、憎まれるほど、イエスが何をしたのかということでした。
ですから「あなたは何をしたのですか。」(ヨハネ18:35)とピラトは尋ねています。それに対してイエスは答えず、「わたしの国はこの世のものではない。」と答え、その国の王なのかという問いに「そのとおり」だと答えます。
ピラトにはイエスの言う「王である」ということばが、ローマにとって反逆とは思われず、実際、無害であると判断しました。そして、イエスを訴える者たちに3度も「私は、あの人には罪は認めません」と言い、過越しの慣習に従ってイエスを釈放しようと提案しました。
しかし、ピラトは、議会(主にサドカイ派議員)に扇動された民衆を恐れ、イエスを十字架刑にする結審をします。結局は、政治決着です。しかし、このピラトも神の救いのマスタープラン(青写真)が完成されていくための器の一人とされました。イエスの十字架によって、私たちは救われたのです。
今週は、受難週で4月10日は、ピラトの裁判も行われた十字架の金曜日です。福音書の最後の数章を読み返しながら、十字架の苦しみを通られたイエスさまに感謝しながら過ごしましょう。
(銘形「イエスの最後の一週間」より一部引用)