2025年11月30日日曜日

2025年11月30日 第5主日礼拝 預言されたインマヌエル

招詞
    見よ。なんという幸せ、なんという楽しさだろう。兄弟たちが一つになって、ともに生きることは。それは、頭に注がれた尊い油のようだ。それは、ひげに、アロンのひげに流れて、衣の端にまで流れ滴(したた)る。                       詩篇133篇1~2節 

聖書箇所
マタイの福音書1章6章18~25節
イザヤ書7章14節

説教
預言されたインマヌエル 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/619 待降節(アドベント)にむけて

 ゼブルンの地とナフタリの地、海沿いの道、ヨルダンの川向こう、異邦人のガリラヤ。闇の中に住んでいた民は、大きな光を見る。死の陰の地に住んでいた者たちの上に、光が昇る。
                             マタイの福音書4章15~16節

 メシア・イエスがこの世に来られて最初に活動された地は、ユダヤの中心地であるエルサレムではなく、当時のパリサイ人が粗野で教養のない人々と見なしていた異邦人の住むガリラヤの地でした。そこに住む者たちが最初に光を見たのです。マタイはイザヤの預言を上記のように引用しています。
 「やみの中を歩んでいた民」と「死の陰の地に住んでいた者たち」とは同義で、ガリラヤに住む異邦人たちのことです。イエスの本格的な宣教の本拠地はガリラヤの「カペナウム」でした。そこは当時のガリラヤ地方の第一の町です。カペナウムには当時ローマの駐屯軍がおり、収税所がありました。また東西交通の要所でもありました。何よりも、イエスが使徒として選んだペテロ、ヨハネ、ヤコブ、マタイらはみなカペナウムの人たちでした。
 マタイの福音書はユダヤ人向けに書かれたとされています。確かにそうなのです。しかしマタイははっきりと異邦人に救いがあることを記しているのです。東方の博士たちの来訪、そして今、異邦人のガリラヤの地であるカペナウムが宣教の場となることなどです。まさに、遠い者が近い者となり、やみの中に座っていた民が光を見る時が訪れたのです。私たちも異邦人でしたが、イエスを信じてアブラハムが預言した祝福の中に入れていただきました。イエスさまに感謝しつつ続けてアドベントを楽しみ喜びましょう。        (銘形「アドベントの瞑想2010」より一部引用)

2025年10月26日 第4主日礼拝 からし種一粒ほどの信仰でも

招詞
    あなたのみことばは、私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。     詩篇119篇103、105節

聖書箇所
詩篇46編2節、ルカの福音書17章5~6節

説教
からし種一粒ほどの信仰でも 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/614 免罪符

 このキリストにあって、あなたがたもまた、真理のことば、あなたがたの救いの福音を聞いてそれを信じたことにより、約束の聖霊によって証印を押されました。 聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証です。                     エペソ人への手紙1章13~14節

 煉獄(れんごく)は、中世カトリック教会発案の教理で、地上の生涯で小罪を犯した者が、死後、天国の途中で通る場所です。小罪もカトリック教会の造語です。免罪符を買うことで、煉獄での罰などを減じられるというという売り文句です。免罪符も煉獄も聖書的根拠はありません。プロテスタント教会には存在しない教えです。
宗教改革当時のローマ教皇レオ10世が教会財政を補うために、免罪符の発行を赦し、マインツ大司教が自分の教区の教会のために使ったことが問題視されました。何よりも、イエスさまを信じて完全に救われて天国に行くことのできる貧しいクリスチャンを怯えさせ、お金を取るという行為にルターは激怒して、あの教皇への95か条の質問状で、はっきりと詰問しています。善良なクリスチャンを騙せたのは、ラテン語の聖書しか認めなかったからで、プロテスタント教会では、各国語の聖書を翻訳出版し、教会と家庭で用いはじめました。 (注)ネット上で、免罪符がこれにより罪赦され救われるカードだと言われているのは間違いです。

2025年11月23日日曜日

2025年11月23日 第4主日礼拝 苦難と希望

招詞    
 私は主を待ち望みます。私のたましいは待ち望みます。主のみことばを私は待ちます。 私のたましいは、夜回りが夜明けを、まことに、夜回りが夜明けを待つのにまさって、主を待ちます。
                                  詩篇130篇5~6節

聖書箇所
ハバクク書3篇1~19節

説教
苦難と希望 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/618 待降節(アドベント)にむけて

 「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」                       マタイの福音書1章21節

 「クリスマス」ー救い主の降誕祭ーをよりよく迎えるために、キリスト教会はその前の期間を「待降節」(アドベント)として、イエス・キリストの到来を待ち望む霊的な準備の期間として用いてきました。
 ところが、毎年迎えるこの期間の過ごし方が習慣的なものとなっていることは否めません。しかも日本では「師走」という最もせわしないこの時期、キリスト教会もそれに劣らずクリスマスを伝道の好機として、さまざまなイベントの準備で忙しくしています。先進国では珍しく12月25日も休日ではなく、普通に仕事の日になっていることもクリスマスを迎える心を削いでいる気がします。インドネシアやマレーシアのようなイスラム教国でも25日は祭日で、クリスマスが祝われています。
 このように本来のアドベントの意義を完全に見失っている現状があります。私たちクリスチャンには、この時期を意識的に、新たな思いと期待をもって神の賜物である御子イエス・キリストを瞑想する時として心を整え、備える必要が逆に求められています。神から来る静まりの中で、「ことばに表わせないほどの神の賜物」ー御子イエスの受肉の神秘と再臨の希望ーに深く思いを馳せることこそ、真のアドベントだと信じます。大人も子供もアドベントカレンダーを壁に貼りアドベントの毎日を忘れない、感謝して過ごすなどの工夫があると良いと思います。 
                      (銘形「アドベントの瞑想2010」より一部引用)

2025年11月15日土曜日

2025年11月16日 第3主日礼拝 ぶどう酒は裏切るもの

招詞
    幸いなことよ、主を恐れ、主の道を歩むすべての人は。あなたがその手で労した実りを食べること、それはあなたの幸い、あなたへの恵み。詩篇128篇1~2節

聖書箇所
ハバクク書2篇5節

説教
ぶどう酒は裏切るもの 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/617 聖地で

 ことばであれ行いであれ、何かをするときには、主イエスによって父なる神に感謝し、すべてを主イエスの名において行いなさい。               コロサイ人への手紙3章17節

 ジョージ・マクドナルドの「隠れた生活」は、才気あふれるスコットランド人の青年が一流の学者の地位を捨て、老いた父の暮らす実家の農場に帰っていくという物語です。友人たちは、彼が自分の才能を無駄にしていると嘆きました。しかしこの青年は、マクドナルドが「普通の行い」とか「さり気ない援助」と呼ぶことを実行します。
 あなたも、人に気づかれない所で平凡極まりない働きをしているかもしれません。時間の無駄だという人もいるでしょうか。しかし、神に無駄はありません。神にささげられた愛の行為はすべて覚えられており、永遠の報いにつながります。どんな場所でも、どんなに小さな場所でも聖地になります。人の心に触れるのは高尚な行いや言葉だけではなく、普通の人の小さな親切かもしれません。そこにいること、話を聞くこと、必要を理解し、愛し、祈ることなどです。この行為が日常の務めを、神を礼拝すること、神に仕えることに変えてくれるのです。
 上記のみ言葉は、「何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています」(3:23~24)に続きます。イエスは、私たちの小さな親切に目を留めてくださり、私たちが用いられることを喜んでくださると約束しています。         (D.ロパー「隠れた生活」から一部引用)

2025年11月9日日曜日

2025年11月09日 第2主日礼拝 定めの時のための幻

招詞
    涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取る。種入れを抱え、泣きながら出て行く者は、束を抱え、喜び叫びながら帰って来る。                 詩篇126篇5~6節

聖書箇所
ハバクク書1篇12節~2章4節

説教
定めの時のための幻 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/616 心に植えつけられたみことば

 すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、心に植えつけられたみことばを、すなおに受け入れなさい。みことばは、あなたがたのたましいを救うことができます。     ヤコブの手紙 1章21節

 上記のみことばにハッとしました。決心できずにいたあることが心に浮かび、私は思いました。「この期に及んで、さらに本を読んだり、セミナーに出たり、友だちに相談する必要はないんだ。聖書が教えているとおりにすればよい。」 私はこの件について、より多くの情報を得ようとしてきたのですが、その努力は神の指示に従うのではなく、それに抵抗する結果になっていたのです。 
 ここで「受け入れる」と訳されているギリシャ語は「提供された物を意識して喜んで素早く受け取る」という意味です。また、「すなお」とは、「神のなさることは私たちにとってすべて良いのだから、口答えも抵抗もせずに謙虚に受け入れる」態度です。
 私たちの心に植えつけられた神の力強いみことばは、霊的な知恵や力の源として信頼に値するものです。素直に受け入れましょう。    D.マッカスランド 「素直に受け入れる」から一部引用)

2025年11月2日日曜日

2025年11月02日 第1主日礼拝 主のご計画は不可解?

招詞
 私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのか。私の助けは主から来る。天地を造られたお方から。 詩篇121篇1~2節   

聖書箇所
ハバクク書1篇1~11節

説教
主のご計画は不可解? 田口勇新牧師

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言(こと)ローグ/615 メッセージはみ子

 神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。 ヘブル人への手紙 1章1~2節

 レイ・トムリンソンは1971年、人がコンピュータを介して対話する方法をいくつか試していました。彼はネットワークを通して、自分のコンピュータから別のコンピュータにメッセージを送ったのですが、これが世界で最初のEメールです。数十年経た現在、毎日10億通以上のEメールが送信されています。その多くは、家族や友人からの大切なメッセージですが、不要な広告や有害なウイルスが送信されてくる場合もあります。Eメール使用の基本的なルールは「送り手が信頼できないなら、そのメールは開けるな」です。
 神が私たちに送られたメッセージは、ご自分の御子イエスでした。このメッセージの送り手は信頼できるお方です。旧約聖書の時代、神は預言者を通してご自分の民に語られましたが、多くの人は、その神のみことばを拒絶しました。
     クリスマスは忘れがたい、愛と贖い、そして希望のメッセージであり、その送り主は神です。      私たちはこのメッセージの贈り手を信頼し、それを開けました。今年も待降節は、11月30日(日).12月24日です。わたしたちは、この愛と希望のメッセージを神さまに代わって届ける役割をいただいています。カレンダーをめくりながら、愛する方々のことを思い、メッセンジャーになれるように願いましょう。 (D.マッカスランド 神からのメッセージより一部引用)