2015年8月23日日曜日

2015年8月23日 第4主日礼拝 100人隊長の信仰

招詞
もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。 
ローマ人への手紙 10章9~10節

聖書箇所
ルカの福音書 7章1~10節

説教
100人隊長の信仰 田口勇新牧師
MP3音声ファイル

言(こと)ローグ22/「で」と「でも」
ルカ7章6節には、デ(de)という接続詞が2回くり返されて出てきます。 「《デ》 イエスは、彼らといっしょに行かれた。《デ》それで、百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、。。。」。最初のデは訳されていませんが、文の流れから<それで>という意味です。2番目は、そしてと訳されていて、「デ」を順節の接続詞として訳出しています。
 ところが、文脈からすると、「ところが、しかしながら」と訳す方が、ここでは意味が通じ、しっくりします。イエスさまと弟子たちが親切にも百人隊長のしもべ(秘書)の病気を癒そうという目的で隊長宅に向かって歩いている途中、「わざわざ来ないでください」という使いを出してイエスさまと一行を止めるのですから逆節、しかしなのです。 マタイ2:21-22の例です。「彼(ヨセフ)は立って、幼子とその母を連れて、イスラエルの地に入った。 《デ》しかし、アケラオが父ヘロデに代わってユダヤを治めていると聞いたので、そこに行ってとどまることを恐れた。」 しかしと、逆接の意味に訳されています。マタイ3:11もその例で、「 水のバプテスマを授けていますが《デ》、...」です。
 このように、新約聖書を注意深く読んでいくと、デは、必ずしも順節だけでなく、逆接の意味にも訳されていることがわかります。それでも、それでと、逆接に訳されていないのが、ルカ7:6のケースです。ここの場合、「デ=そして」と「デモ=しかし」を入れ替えて読むとしっくりする意味がつながるように思います。
 さて、好対照の例として、実は、カイ(kai)というギリシャ語は、「そして」という順節の接続詞ですが、時には「しかし」という逆接の意味で使われることがあります。 例として、ヨハネ4章のサマリヤの女の1節です。「先生。あなたはくむ物を持っておいでにならず、<カイ>この井戸は深いのです(ヨハネ 4:11)。この場合、新改訳聖書では、しかもという順節で訳していますが「あなたは、バケツをもっていない、しかしこの井戸は深いのですよ」、とも訳出できます。どちらが正解とはいえませんが、ニュアンスは異なります。