2017年8月29日火曜日

2017年08月27日 第4主日礼拝 神の作品

招詞
地とそれに満ちているもの、世界とその中に住むものは【主】のものである。 まことに主は、海に地の基を据え、また、もろもろの川の上に、それを築き上げられた。     詩篇24篇1~2節

聖書箇所
エペソ 人への手紙 2章 7~10節

説教
神の作品  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ202/主(キュリオス)
 「神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。」                           ピリピ人への手紙 2:9~11
 
 へブル語を知らないユダヤ人のために訳された70人訳ギリシャ語聖書では、「ヤーウェ」や「アドナイ(わが主)」の訳語としてこのキュリオス(主)を使っています。
 新約聖書では、「主」は神の称号です。ローマ皇帝は自分こそ神、すなわち「主」であると公言したため、初代教会において「イエスが主」であると告白することは、自分の首が飛ぶことを覚悟しなければなりませんでした。つまり、「イエスは主である」との告白は、殉教覚悟の告白を意味したのです。上記ピリピ2:9~11は、イエスこそ「主の主」という信仰告白です。イエスは、支配者たちの支配者という意味です。2000年前には、ネロ皇帝が自分を「主」と呼ばせたことへの抗議の意味を込めて、クリスチャンたちが、イエスこそが「主」であると告白しました。80年前にヒトラーは自分への最敬礼を強要し、恐怖政治と侵略を続けた結果、滅びました。イエスさまを「主」と呼べる信仰の自由を感謝し、喜びましょう。
                          (銘形「エペソ書の重要語」より引用)

2017年08月20日 第3主日礼拝 過去と今の私

招詞
【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。
              主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。
                                   詩篇23篇1~2節
聖書箇所
エペソ人への手紙 2章 1~6節

説教
過去と今の私 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ201/「キリスト」(クリストス) 
ギリシャ語のクリストスは、新約聖書に529回も使われていますが、福音書よりもパウロの書簡に多く使われています。その数383回です。
 クリストスはヘブル語の「マーシーアッハ」(油注がれた者)の直訳で、メシアと音訳されます。
 旧約聖書で油注がれた者とは、王や預言者、祭司などを指しました。それで、イエスは自分がキリスト(メシア)と呼ばれることを極力避けました。なぜなら、イエスがこの世の人々が期待している地上の王としてのキリストでないことを示唆するためです。つまり、キリストは人々の罪のために十字架で死なれて後、栄光を受けられることを理解できなかっためです。
 ペンテコステ以降、弟子たちはイエスがキリストであることをはっきり悟り、明確に宣言し、イエスに「キリスト」の称号をつけて伝道しました。さらに、初代教会は「キリスト」に「主」(キュリオス)という神を表わす最高の称号をつけて「主キリスト」、あるいは「主イエス・キリスト」と呼びました。迫害下の教会で、ローマ皇帝が、自分をキュリオスと呼ぶことを強制していた時代ですから、リスクが大きかったわけです。
 私たちもイエスさまを証するときに、周りの目を恐れずにイエスさまはキリスト(メシア)救い主です、とはっきりと伝えましょう。
                          (銘形 「エペソ書の重要語」より引用)

2017年8月13日日曜日

2017年08月13日 第2主日礼拝 教会はキリストのからだ

招詞
まことに、【主】のほかにだれが神であろうか。私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。         詩篇18篇31~32節

聖書箇所
エペソ人への手紙 1章 20~23節

説教
教会はキリストのからだ 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ200/「使 徒」(アポストロス)
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、
            キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。  エペソ1章1節

 エペソ人への手紙の講解説教が始まっていますが、今回からこの手紙に登場する重要語いをとりあげていきます。最初は、使徒(アポストロス)です。使徒は新改訳聖書では103回も頻出し、エペソ人への手紙には、4回 (1:1、2:20、3:5、4:11) 使われています。
 「使徒」とは、特別な使命を帯びて派遣された者を言います。新約聖書ではまずイエス・キリストによって直接弟子として任命された12人の者たちが、使徒または弟子と呼ばれました。使徒としての条件はイエスの直弟子であり、さらにイエスの復活を目撃した証人でなければなりませんでした。しかし、使徒パウロはイエスの直弟子でも、イエスの復活を目撃した証人でもありません。ですから、彼は自分でこう言っています。
 「そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現れてくださいました。私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。ところが、神の恵みによって私は今の私になりました。」 Ⅰコリント 15:8~9
 使徒たちは,パウロを除いて,無学な普通の人々でした(使4:13)。しかし、彼らはペンテコステに下った聖霊によって変えられ、大胆に,十字架と復活のイエスと救いを伝えました。この命がけの使徒たちの働きを忘れてはなりませんね。
                   (銘形 「エペソ書の重要語い」より編集し、一部引用)

2017年8月6日日曜日

2017年08月06日 英語であそぼう特別礼拝 子どものように

招詞
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。
ガラテヤ人への手紙 5章22~23節

聖書箇所
マルコの福音書 10章14~16節 

説教
子どものように  田口勇新牧師
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2017年7月30日日曜日

2017年07月30日 第5主日礼拝 最初の人アダム

招詞
すべての国々の民よ。これを聞け。世界に住むすべての者よ。
       耳を傾けよ。 低い者も、尊い者も、富む者も、貧しい者も、
              ともどもに。 私の口は知恵を語り、私の心は英知を告げる。
                                  詩篇49篇1~3節
聖書箇所
創世記  1章26~28節 
     2章7~8節

説教
最初の人アダム  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ121/尋ね調べて(ハーファス ハーハル) 
私たちの道を尋ね調べて、【主】のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。 哀歌 3章40~41節
 「尋ね調べる」は、二つの動詞から成っています。いずれも似たような意味を持っていますが、それを重ねることで意味が強調されています。尋ね(ハーファス)は、「(自分に)問いかける」という意味で、調べる(ハーカル)は、「探る」という意味です。「とこしえの道へと導かれる」ために、私を探ってくださいと祈っています。その「探り」とは、人の内にある本当の問題点を明らかにすることを意味します。「調べる」という意味も同様に、自分たちの問題点を明らかにするためのものだと言えます。ただ、大事なことは、自己流ではなく、神さまに探っていただくことです。そして、問題が明らかにされた時には、涙をながして悔い改めることが必要で、それこそ預言者エレミヤがユダヤ人たちに願ったことでした。
 
新約聖書には、「悲しみなさい」というユニークな勧めがあります。
 
神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。ご覧なさい。神のみこころに添ったその悲しみが、あなたがたのうちに、どれほどの熱心を起こさせたことでしょう。            Ⅱコリント7章10~11節
 
神さまが良しとする悲しみが、真の悔い改めに導き、信仰の熱心を起こさせたと言っています。一人のコリント教会員に信仰のリバイバルが起きて、教会全体に広がりました。一人ひとりの神様の前での悔い改めを神様は用いて喜んでくださるのですね。     (銘形 「哀歌」より引用)

2017年07月23日 第4主日礼拝 心の目

招詞
神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王に
         ほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。 まことに神は全地の王。
              巧みな歌でほめ歌を歌え      詩篇47篇 6~7節

聖書箇所
エペソ人への手紙 1章15~19節

説教
心の目 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ120/哀歌2 悔い改めのプロセス
「私たちの道を尋ね調べて、主のみもとに立ち返ろう。
     私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。」
                              哀歌 3章 10~11節
 前回と同じみことばです。
 ユダ王国の人たちは、悔い改めのプロセスに70年かかりました。安易な悔い改めでは足りませんでした。2世代にまたがった大きな悔い改めでした。
 なぜユダの民全体の悔い改めに70年もの時間が必要だったのでしょうか。なぜなら、悔い改めには、単に罪を認めるだけでなく、神のことば(教え)に従順に従う生き方の実を結ぶという、聖書的ライフスタイルの回復が求められるからです。
 実は、エレミヤ書29章によれば、亡国と捕囚の憂き目を経験したユダの民たちが、神に対する悔い改めの実を結ぶまでに70年の歳月が必要であることを預言者エレミヤはすでに語っていました。しかし、この時、にせ預言者たちは、わずか「2年」で十分だ、と言い張りました。彼らは、悔い改めを自分のこととして真剣に考えず、また、神さまからのお告げもないのに、甘言で王や民たちに偽りの平安や希望を与えようとしたのです。私たちも、安易な安心や希望を与えようとする、「現代のにせ預言者たち」に惑わされないように、しっかり聖書の教えに立っていなければなりませんね。
次回は、「訪ね調べる」をへブル語のことばから再考してこの項を閉じます。
                        (銘形 聖書を横に読む「哀歌」より引用)

2017年7月16日日曜日

2017年07月16日 第3主日礼拝 救いの証(しるし)

招詞
すべての国々の民よ。手をたたけ。喜びの声をあげて神に叫べ。 まことに、いと高き方【主】は、恐れられる方。全地の大いなる王。                   詩篇47篇1~2節

聖書箇所
エペソ人への手紙 1章11~14節

説教
救いの証 (しるし) 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ119/ああ、なにゆえ(エハー)
ああ、人の群がっていたこの町は、ひとり寂しくすわっている。        哀歌1章1節

 「哀歌」は「エレミヤの哀歌」とよばれて旧約聖書の中で一番読まれていない書のひとつかもしれません。「哀歌」のヘブル語の原題は最初に登場する語彙「ああ、なにゆえ」と訳される「エーハー」です。新改訳聖書は「ああ」だけです。 旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳には、タイトルが「エレミヤ哀歌」となっており、「まえがき」として次のような説明が記されています。
 「イスラエルが捕囚に導かれ、エルサレムが荒廃した後、エレミヤは座して泣き、この哀歌をもってエルサレムのために哀悼した。」と。「哀歌」は文字通り「悲しみの書」です。なにゆえにこの悲惨な出来事が起こったのかが「哀歌」の内容です。それは、40人の分裂王国時代の神さまへの背信の罪の結果でした。しかし、預言者エレミヤの語ることばに、指導者や民たちが耳を傾けなかったことです。エレミヤはこんな霊的な暗黒の中にある同胞にもあきらめずに呼びかけました。哀歌3:40~41には、「私たちの道を尋ね調べて、【主】のみもとに立ち返ろう。私たちの手をも心をも天におられる神に向けて上げよう。」と語りかけています。この言葉は、霊的に弱っているかもしれない私たちにも新鮮なことばですね。     (銘形 「哀歌の黙想」より引用)

2017年7月9日日曜日

2017年07月09日 第2主日礼拝 御国を受け継ぐ祝福

招詞
主を恐れる人は、だれか。主はその人に選ぶべき道を教えられる。 その人のたましいは、しあわせの中に住み、その子孫は地を受け継ごう。               詩篇25篇12~13節

聖書箇所
エペソ人への手紙 1章11節

説教
御国を受け継ぐ祝福  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ118/一番すぐれているのは「愛」
愛は決して絶えることがありません。いつまでも残るものは信
                       仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
                              第一コリント13章 8,13節
 
この地上での人生は、苦しみや試みがあって神の愛が見えなくなってしまいそうな時でも、信仰と希望をもって生きることができます。上の聖句では、3つの中で一番すぐれているのは「愛」だと述べています。なぜ、愛が一番優れているのでしょうか。それは、天のみ国において、神の愛の中で過ごすようになる時、愛が完全に現わされるので、信仰も希望も意識しなくて済むようになるからでしょう。天においては、病気や悲しみや嫉妬などから解放されて、神さまの愛、心から愛し合う兄弟愛の関係が備えられています。神の子どもとされた者たちは、そこで神の愛に満ち足りるのです。
 エペソ1章11節によれば、私たちはすでにキリストにあって「御国を受け継ぐ者」とされているのです。完全な相続財産である神ご自身との交わりは、天にしっかりと備えられています。では今は、どうでしょうか。実は、私たちは聖霊によって、この世でその前味を味わうことができるのです。不完全ではあっても、教会でも前味としての兄弟愛や犠牲的な行いを見ることができます。私たちには、信仰の歩みの中で、教会内外で互いに助け合い、補い合って神からいただく愛のすばらしさを味わい楽しむことが期待されています。このことに気づく人は、幸いです。
                        (銘形 「エペソ書の瞑想」より一部引用)