2017年1月29日日曜日

2017年01月29日 第5主日礼拝 イエスの権威

招詞
ハレルヤ。私のたましいよ。【主】をほめたたえよ。 私は生きているかぎり、【主】をほめたたえよう。
                                     146篇1~2節
聖書箇所
ルカの福音書 19章45節~20章8節

説教
イエスの権威 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ95/ハレルヤ(ハレルヤーハ)
息のあるものはみな、主をほめたたえよ。ハレルヤ。               詩篇150篇6節

詩篇の最後は第150篇で、ハレルヤで始まり、ハレルヤで閉じられます。ハレルヤは、「主をほめたたえよ」の意味です。旧約では24回使われています。ヘブル語で「ハレルヤ」は⼆つの語彙から成り⽴っています。⼀つは動詞「ハーラル」で「ほめたたえよ」の意味。もう⼀つは固有名詞の神聖四⽂字ヤーヴェ【YHWH】の短縮形「ヤーハ」です。この最後の「ハ」は、激⾳を伴っていますから喉を絞るように「ハ」と発音します。 これを⼀般に「ハレルヤ」と表記しているのです。やさしく「ハレルヤー」と歌うだけでなく、覇気(はき)をもって「ハレルヤーハ」と歌いながら、3000年前に真の神さまを礼拝していた信仰者たちの息吹に触れたいと思います。                             (銘形「ヘブル語コラム」より一部引用)

2017年1月22日日曜日

2017年01月22日 第4主日礼拝 イエスのエルサレム入場

招詞
祝福あれ。主の御名によって来られる王に。天には平和。栄光は、いと高き所に。
                                 ルカの福音書 19章38節
聖書箇所
ルカの福音書 19章28~44節

説教
イエスのエルサレム入場  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ94/隠れ場(ソーテル)
「あなたは、彼らを人のそしりから、あなたのおられるひそかな所 (ソーテル))にかくまい、舌の争いから、隠れ場に隠されます。」                            詩篇31篇20節
 大統領選で舌戦というのを毎日ご覧になった方々も多いでしょう。私たちの生活の中では、避けたいと思っても舌の争いを挑(いど)まれることがあります。詩篇の作者は、その時に、神さまは「隠れ場」を提供してくださると歌いました。 新共同訳では、仮庵(かりいお)と訳しています。「御もとに彼らをかくまって、人間の謀(はかりごと)から守ってくださいます。仮庵(かりいお)の中に隠し、争いを挑む舌を免れさせてくださいます。」  多くの場合、争いを挑(いど)む舌に受けて立つのは避けた方が良いのですが、それでも相手がやめない時はどうすれば良いのでしょう。ダビデは、巨人ゴリアテに立ち向かう勇気も知恵も備わっていた信仰の人でしたが、弱さも持っていました。そこに敵は攻撃をしかけ、舌の争いをしかけました。ダビデは、部屋の戸を閉め、一人主に祈りました。そして平安をいただき、知恵をいただいて部屋から出ることができました。ダビデのように政敵はいなくても、日常のいろいろな舌の争いから、神さまの隠れ場に逃げ込むことが必要な時があります。遠慮なく神さまのもとに身を避けましょう。
                         (銘形「ヘブル語のキーワード」より一部引用)

2017年1月15日日曜日

2017年01月15日 第3主日礼拝 イエスの子ども時代

招詞
キリストは神の御姿である方なのに、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。                             ピリピ人への手紙 2章6~7節

聖書箇所
ルカの福音書 2章39~52節

説教
イエスの子ども時代 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ93/必ず(ディ) 
「わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか。」     ルカの福音書 2章48節

 必ず(ディ)という言葉にはイエス様自身の意識が現れています。「どうしてわたしをお捜しになったのですか。わたしが必ず自分の父の家にいることを、ご存じなかったのですか」。必ず(ディ)は、新約聖書で101回も出てきます。ディは、後にご自分が十字架にかけられて死ぬことを弟子たちに予告する時にも出て来ます。
 「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらねばならないのです」                     ルカの福音書 9章22節
 ここでの「必ず~ねばならない」と訳されている部分がディです。
 何が「必ず~」なのでしょうか。それは「父の家にいること」です。「父の家」は、原語をそのまま訳すならば「父のもの」の意味になります。イエス様はただ神殿のことだけを言っておられたのではなく、父なる神の働きに共に携わっていると言っているのです。
 それは具体的には、やがて十字架にかけられることになる人生を歩んでいるということです。そのようにして人々の罪を贖い、神の救いの御業を実現することになる歩みです。それが「必ず~なる」と言われたのです。たった12歳の少年でしたが、イエス様は既にその時、天の父の定められた道を意識しておられました。

2017年1月8日日曜日

2017年01月08日 第2主日礼拝 御霊とシメオン

招詞
主よ。 御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。                             ルカの福音書 2章31~32節

聖書箇所
ルカの福音書 2章25~35節

説教
御霊とシメオン 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ92/「共に」住む ヤーハド
「見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、 なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」
                                    詩篇133章1節
 「家の中で共に住むということは、家族が集まる場所を確保し、そこで食卓を共にすることなのだ」とある作家は言っています。家族のしるしとは、食卓を共にすることー同じテーブルで同じ時間に、同じものを食べる、同じ時を過ごすことということです。
 神の家族としての教会も同様です。毎月の聖餐式と毎週の愛餐昼食は、この教会の祝福ですね。神の食卓を共にするということは、同じ時間に同じ神のみことばを食べ、味わい、そしてそれを分かち合うことです。神の家に集い、神を賛美し、神のみことばを共に聞くーこれが神の家族としての基本的な姿なのです。
 教会の交わりには、教会の建物の中でも外でも境界線はありません。祈りと主にある交わりでつながっています。今年も「なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。」と言える交わりが続きますように。
                         (銘形「へブル語のキーワード」より一部引用)

2017年1月1日日曜日

2017年01月01日 元旦礼拝 新しいドアは開かれた

招詞
新しい歌を主に歌え。全地よ。主に歌え。主に歌え。御名をほめたたえよ。
日から日へと、御救いの良い知らせを告げよ。               詩篇96篇 1~2節

聖書箇所
イザヤ書 43章16~20節

説教
新しいドアは開かれた 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ91/新しい歌(シール ハーダ-シュ)
「新しい歌を【主】に歌え。」      詩篇96篇1節
 新しい歌の定義は、何でしょうか? 
 詩篇33:3、40:4、96:1、144:9、149:1、イザヤ42:10などの文脈から次のように定義できるでしょう。
① 新作の歌という意味ではなく、神への救いの驚き、感謝、感動を新たな思いで歌う歌のこと。
②主に贖われた者(救われた者)にしか歌えない歌(賛美)のこと。
③ 救いの感謝と喜びの歌、教会の愛兄姉の交わりの歌、信仰と希望の歌のこと。
 3000年前に歌われた「新しい歌」は、今日の教会にも必要です。教会のサイズに関わらず、教会が制度化、組織化、固定化、伝統化されていく中でキリストのいのちが希薄になっていく状況が起こり得ます。そうした閉塞感の中で私たちは今を生きるための神への「新しい歌」を必要としています。なぜなら、「新しく造られる民が主を賛美しますように。」(詩篇102:18)とあるように、生きた賛美は主によって刷新された民によって、新しい心をもって歌われていくからです。主に向かっての「新しい歌」の特徴は、喜びに満ちあふれた賛美と祈りであり、主体的な信仰の告白によって息づいています。私たちの教会が新しい歌で満ち溢れますよう。                            (銘形「へブル語のキーワード」より)

2016年12月25日日曜日

2016年12月25日 クリスマス礼拝 天使の賛美に励まされて

招詞
きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
                                 ルカの福音書 2章11節
聖書箇所
ルカの福音書 2章8~20節

説教
天使の賛美に励まされて 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ90/栄光(ドクサとカボド) 
「御子は神の栄光の輝き、また 神の本質の完全な現われ・・・」
                                へブル人への手紙 1章3節
 
栄光(ドクサ)は、神の御子イエスにおける神の栄光です。イエスさまは、光であり、輝きでした。ヨハネの福音書1章14節では、「ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。」と書いてあります。イエスさまを見た人たちは、神の栄光を見たのでした。
 ドクサは、へブル語カボドのギリシャ語訳です。栄光(カボド)の持つもう一つの意味は、「重い」です。この世界における最重要なことは、神のひとり子が、この世界に到着なさったことにより、「最も重要な神の啓示がついに実現した」ということです。私たちは、弟子たちのようにイエスさまに直接会うことはできませんが、イエスさまの言葉を聖書で読み、栄光の姿を想像できます。やがて、終わりの日には、直接見ることができるのです。                        (銘形 「ヘブル語の鍵語」から引用)

2016年12月18日日曜日

2016年12月18日 待降節第4主日礼拝 キリストの預言者たち4

招詞
イエスはまた言われた。「わたしは、良い牧者です。
良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。」
ヨハネの福音書10章11節

聖書箇所
エレミヤ書23章5節
ヨハネの福音書10章11~15節

説教
田口勇新牧師「キリストの預言者 4」
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言(こと)ローグ89/若枝(ツェマハ)
「わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄え て、この国に公義と正義を行う。」
エレミヤ書23章5節
 ここにある「若枝(ツェマハ)」はメシアの象徴です。イエス・キリスト のことを意味しています。この「ツェマハ」は旧約で12回使われています。生えているもの、萌え出るもの、芽生えるもの、枝、若枝、芽を意味します。12回の引照箇所は次の通りです。創世記 19:25、詩篇 65:11、イザヤ書 4:2、61:11、エレミヤ 23:5、33:15、エゼキエル 16:7、17:9- 10、ホセヤ 8:7、ゼカリヤ 3:8、6:12。
 特にエレミヤ 23:8の「 『イスラエルの家のすえを北の国や、彼らの散らされたすべての地方から上らせた【主】は生きておられる』と言って、自分たちの土地に住むようになる。」という預言は、全イスラエルの回復を意味しています。この回復は キリストの再臨を待たなければなりません。歴史は、着実にその方向に向かって進んでいると思います。
(銘形 「エレミヤ書」より引用)


2016年12月11日 待降節第3主日礼拝 キリストの預言者たち 3

招詞
私は見る。しかし今ではない。ヤコブから一つの星が上り、イスラエルから一本の杖が起こる。
民数記24章17節

聖書箇所
ミカ書 5章2節
マタイの福音書 2章1~6節

説教
キリストの預言者たち 3 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ88/平和(エイレーネー)
「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
ルカの福音書2章14節

イエスの平和とローマの平和を比べてみましょう。
 初代皇帝アウグストは、力で敵を打ち負かし、当時の世界に平和をもたらしました。「ローマによる平和」(パックス・ロマナ)と呼ばれます。彼は、自分を神、主(キュリオス)と呼ばせ、人々は救い主とあがめました。彼自身知っていたように、彼は神ではありません。武力で平和を作りだしたのですから、地方では反乱が絶えませんでした。彼の統治こそが福音だとも言われました。しかし、ローマ市民だけが彼の平和と福音の恩恵に浴することができました。一方、イエスさまは、愛の力で、すべての人々の心に平和をもたらしました。神の御子で、真実、主(キュリオス)です。イエスさまの福音は、天の御国に入るための良い知らせでした。ユダヤ人もローマ人(異邦人)も、自由人も奴隷も、すべて天の御国に招かれました。主イエスを信じて、罪を悔い改めることだけが条件でした。
 皇帝は、ユダヤ人を含め、領内の人々を信じないで、常に監視しました。イエスさまは、弟子たちを愛し、信頼してくださいました。そして、今も私たちを愛し、見守ってくださっています。私たちも、弟子としてイエスさまを心から愛し、信頼しましょう。私たちは、困難の中でもイエスさまから心に平和をいただいていて、今日も進むことができますから感謝ですね。

(銘形 「アドベントの瞑想」より一部引用)