2017年5月28日日曜日

2017年05月28日 第4主日礼拝 イエスの昇天

招詞
聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。  使徒の働き 1章8節

聖書箇所
ルカの福音書24章 44~53節
使徒の働き1章 1節~11節

説教
イエスの昇天 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ111/待ちなさい(ペリメノー)
「五旬節(ペンテコステ)」に約束された聖霊が注がれたことは、神の救いと教会の誕生のご計画における驚くべき戦略です。イエスは昇天前にこのことを明確には教えませんでした。あたかも、なぜ「五旬節」に聖霊が注がれたのか、後で弟子たちがよく悟るようにと課題を与えたかのようです。イエスは弟子たちに、「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」(使徒1:4)と言われました。弟子たちは言われたとおりに、エルサレムで、自分たちの泊まっている屋上の間に上がって、みな心を合わせて祈りに専念していたとあります。
 ここでイエスが「待ちなさい」と命じた「待つ」は「ペリメノー」というギリシア語です。「メノー」は「とどまる」という意味で、ヨハネの福音書ではきわめて重要なキーワードです。それに接頭語としての「ペリ」がついています。「~を越えて」「必要以上に」という意味で強意を示しています。つまり、ここでの「ペリメノー」は、これまでにはない特別な意味において弟子たちに「待つ」ことを命じています。そして、待ったかいがあったのです。私たち、クリスチャンにとっても待つことほど、忍耐の要ることはないでしょう。しかし、イエスさまは、時々、ペリメノー(待て)と強く命じられます。その時は、弟子の気持ちを思い出しましょう。
                     (銘形「7週の祭りの預言的意味」より一部引用)

2017年5月21日日曜日

2017年05月21日 第3主日礼拝 湖畔での励まし

招詞
力ある者の子らよ。【主】に帰せよ。栄光と力とを【主】に帰せよ。
                 御名の栄光を、【主】に帰せよ。   詩篇29篇1~2節

聖書箇所
ヨハネの福音書21章 1~14節
説教
湖畔での励まし 田口勇新牧師

言(こと)ローグ110/共に(ヤーハド)②
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、
          なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。    詩篇133:1
 
 神の家において「共に住む」ことの祝福が、詩篇133篇2~3節では二つのたとえで表現されています。

①大祭司を通して末広がりに(2節) 神の民全体に流れしたたる祝福の油は特別な祝福、あるいは歓迎のしるしです。大祭司は旧約ではアロンでしたが、新約ではイエス・キリスト(Jesus)です。つまり、大祭司イエスを通して「共に住む」ことが実現されるのです。

②いのちをもたらす露として(3節) 「共に住む」ことのもうひとつの祝福は、「シオンの山々に下りるヘルモンの露」にたとえられています。「シオンの山々に下りるヘルモンの露」とはどういう意味でしょう。イスラエルは雨季と乾季がはっきりしていて、乾季の時はほとんど雨が降りません。ところが乾季(5月~10月頃まで)には多くの果物がなります。どうして雨が降らないのに果物がなるのでしょう。それは露のせいです。「露」は寒暖の差が大きいとより多くできます。ヘルモンは、おびただしいほどの露を発生するのですが、シオンにそうしたヘルモンほどの露が降るということはありません。しかし兄弟たちが「共に住む」ということの中に、そうしたヘルモンの露にも似た霊的な祝福が注がれ、多くの結実がみられるというのです。
                   (銘形 「神の家族のトーヴ(良いもの)」から引用)

2017年5月14日日曜日

2017年05月14日 第2主日礼拝 土の器

招詞
主は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。                   詩篇28篇7節

聖書箇所
コリント人への手紙第二 4章1-7

説教
土の器 ジョン・ロビソン師
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言(こと)ローグ109/共に(ヤーハド)住む
見よ。兄弟たちが一つになって共に住むことは、
           なんというしあわせ、なんという楽しさであろう。   詩篇133:1

 「共に住む」は原文では「共に座る」です。つまり共に座って食卓を共にし、共に語り合う、共に学ぶ姿、団欒を共にするーそれが「共に座る」ことであり、「共に住む」ことなのです。
 「共に(ヤーハド)」ということばは聖書の中には484回、「共に集まる」ということばは97回示されていますから、これを読むクリスチャンにとって中心的な重要語と言えます。
 共に集まり、共に歌い、共に礼拝し、共に戦い、共に交わり、共に苦しみ、共に喜び、共に泣き、共に助け合い、共に結ばれ、共に住み、共に成長し、共にいこい、共に包まれ、共に編みこまれ、共に形づくられ、共に組み立てられ、共に働き、共に歩み、共に語り、共に親しく交わり、共に建て上げる。神は、私たち神の民が、「共に」あることを意図されました。
 神の家において「共に住む」ことの祝福が、詩篇133篇では二つのたとえで表現されています。それは、①末広がりの恩寵(おんちょう)としての祝福と、②いのちをもたらす露としての祝福です。次回、詳しく説明します。
                    (銘形「神の家族のトーヴ(良いもの)」から引用)

2017年5月7日日曜日

2017年05月07日 第1主日礼拝 この場所居場所?

招詞
【主】、わが力。私は、あなたを慕います。
【主】はわが巌、わがとりで、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。
                                   詩篇18篇1~2節

聖書箇所
エステル記4章14節

説教
この場所居場所? 老松  望KGK主事
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言(こと)ローグ108/イヴリート(ヘブル語)
宗教改革者マルチン・ルターは1521年、3か月で新約聖書をドイツ語に翻訳し、翌年の1522年に新約聖書を出版して、原語以外は、ラテン語以外の聖書がない世界に一石を投じました。その後すぐに、旧約聖書の翻訳にとりかかり、12年かけて完成させました。ルター自身もヘブル語を知っていましたが、ヘブル語教師のメランヒトンたちの助けを借りました。ルター自身はヘブル語の原文にふれることの重要性を信じて次のように言っています。「詩篇を味わう」(鍋谷尭爾著)からの引用です。「私はヘブル語を学び、これを怠らないようにすすめる。この言葉がたとえ役立てる機会がないとしても、なおも感謝して学ばねばならない。ヘブル語を教え、また、学ぶこと自体が信仰の一部であり、礼拝そのものである。・・・もし、私たちがヘブル語を知らなければ、ローマ・カトリック教会は私たちをロバとののしるだろう。一方、ヘブル語を知っているならば、彼らの愚かな口を封じることができる。」 へブル語の賛美歌を口ずさみながら、詩篇記者の信仰に触れたいものですね。
                            (銘形 へブル語コラムより引用)

2017年4月30日日曜日

2017年04月30日 第5主日礼拝 天にあるものをおもって

招詞
何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。 あなたがたは、主から報いとして、御国を相続させていただくことを知っています。
                          コロサイ人への手紙 3章23~24節

聖書箇所
コロサイ人への手紙 3章1~4節

説教
天にあるものをおもって 齋藤満師
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言(こと)ローグ107/信ずる者と信じない者(ピストスとアピストス)
  「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」        ヨハネ20章27節

イエスの復活の日に言われた次の3つのことは、つながりがあります。
1.復活されたイエスがマグダラのマリヤに言われたこと。
2.その後に、イエスが弟子たちのところに入ってこられて「聖霊を受けよ」と言われたこと。
3.そして弟子のトマスのところに来られて「見ないで信じる者は幸いである」と言われたこと。
特に、3つめのトマスに対する取り扱いは重要です。なぜなら、その後の時代のキリスト者は見ないで信じる者となるからです。トマスも他の弟子たちも、マグダラのマリヤも、そしてペテロもヨハネも、みな「見て、信じた」のです。「見て、喜んだ」のです。「見ないで信じる者は幸いである」とは、やがてイエスが昇天されて人々の目には見えなくなくことを前提として語っておられるのです。
ヨハネの福音書が書かれた時代には、すでにキリスト者に対する迫害が始まっていました。異端との戦いもはじまっていました。そうした戦いをくぐり抜けるためには、御子イエスとの愛のかかわりをしっかりと築き、目に見えずとも、御座におられるイエスの御名の力に支えられて、この世にあって神に従う決意が求められていたのです。私たちが、ただお一人の創造主を信じる信仰を表すとき、信じないこの世の人々との摩擦が起きます。そんな時にも、イエスさまの御名の力に支えられて、この日本で神に従う決意はできているでしょうか?
               (銘形 「復活後のイエスの顕現の意味するところ」より引用)

2017年4月23日日曜日

2017年04月23日 第4主日礼拝 信じるなら、神の栄光を見る

招詞
私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。
                           コリント人への手紙第2 3章18節

聖書箇所
ヨハネの福音書11章39~40節

説教
信じるなら、神の栄光を見る 玉井邦美牧師
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言(こと)ローグ106/「神の力」の同義語と類義語
 神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。        エペソ人への手紙1章19節
 
信仰は神の力を知る通路だといえます。電気は、発電所で得た電気のエネルギーが電線という通路をつたわって、工場、事務所、家庭で熱であったり、光であったり、動力となったりして働きます。
 神の全能の力も、私たちの信仰という通路を通って、ひとつの力となります。それはある行動を促したり、思いや想像を越えた出来事(奇蹟)を引き起こしたりします。困難な問題が解決したり、病が癒されたり、私たちの心にある心配や不安に変えて平安をもたらします。これは信仰によって、神の全能の力が働いたからです。パウロが、エペソ教会につながる一人一人がより多く、豊かに、神の全能の力の働きを知ることができるように、祈っているように、神さまは、今日のすべての聖徒たち(つまり、私たち)にも神の力を経験してほしいと願っておられます。



2017年4月16日日曜日

2017年04月16日 イースター・召天者記念礼拝 イエスの復活を信じて

招詞
あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを、私は知っています。 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。        マタイ28章5~6節

聖書箇所
ルカの福音書  24章1~12節、44~53節

説教
イエスの復活を信じて 田口勇新牧師
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2017年4月9日日曜日

2017年04月09日 第2主日礼拝 受難③ イエスの死と勝利

招詞
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。                             へブル人への手紙12章2節                        
聖書箇所
ルカの福音書 23章24~49節

説教
受難③ イエスの死と勝利 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ105/きょう(ハツヨーム)
あなたは、きょうわたしとともにパラダイスにいます。      ルカの福音書 23章43節

イエスさまの十字架上の7つのことばのうち、2番目に語られたことばで、隣の十字架にかけられている強盗の一人がこの慰めのことばを聞きました。「パラダイス」とはラザロと金持ちの話(ルカ16:19~31)にある「アブラハムのふところ」です。そこは、自分の罪を悔い改めて、イエスを信じて義とされた者たちが行くところです。
 「きょう」という言葉は、私たちが考えている「昨日、今日、明日」という意味での「今日」ではありません。ヘブル語では「ハッヨーム」で「その日」とも訳せます。つまり、神によって「定められた日」、神によって「しるしづけられた日」を意味します。「私たちが。目覚めていても、眠っていても、主とともに生きる」(テサロニケ第一5:9)ところが、パラダイスです。ですから、神の定められた「その日=きょう」という日に現存するのです。そこに私たちの希望があります。パラダイスの希望をもって進みましょう。イエスさまは招いていてくださいます。家族や友人がこのパラダイスにいっしょに入れるように祈りましょう。
                          (銘形 「十字架のイエス」から引用)