2017年10月29日日曜日

2017年10月29日 ルター宗教改革500念記念礼拝③ ルターと子どもたち

招詞
主に信頼する者には、恵が、その人を取り囲む。正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべての心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。            詩篇32篇10~11節

聖書箇所
詩篇127篇1~5節

説教
ルターと子どもたち 田口勇新教師
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言(こと)ローグ/210
神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。             エペソ人への手紙1章5節

ここでは、似たような二つのことば(名詞)が重ねられて使われています。一つは「ユードキア」(みむね)、もう一つは「セレーマ」(みこころ)です。後者はすでに1節に「みこころ」と訳された語彙です。
 「ユードキア」は、新約聖書で9回。エペソ書では2回、1章5・9節に使われています。新改訳第2版では「ご計画」、第3版では「みむね(御旨)」と改訳されました。
 「みむね」(御旨)は、善意、好意、喜びとするこころという意味で、キリストにおいてあらかじめお立てになった神のご好意を意味します。英語では “good will” などと訳されています。
 動詞形の「ユードケオー」は、新約聖書では21回使われ、神が喜ぶというように訳されています。
   「また、天からこう告げる声が聞こえた。『これは、わたしの愛する子、
    わたしはこれを喜ぶ』」          マタイ 12章18節
   「これぞ、わたしの選んだわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしの
    愛する者。」                  ルカ 12章32節
   「小さな群れよ。恐れることはない。あなたがたの父は、喜んであなた
    がたに御国をお与えになるからです。」    Ⅰコリント 1章21節
 
神のみむね(心)は、私たちを喜ぶことです。神は、喜んで、私たちに御国を与えて、そこに導き入れてくださる方です。苦しい時、悩む時も、神の国は、死の向こうにまでつながっていることを忘れないようにしましょう。素直に、「喜んでしてくださる」神の助けを受けましょう。
                         (銘形「エペソ書の重要語い」より引用)

2017年10月22日日曜日

2017年10月22日 ルター宗教改革500年記念礼拝② ルターと賛美

招詞
新しい歌を【主】に歌え。全地よ。【主】に歌え。
【主】に歌え。御名をほめたたえよ。日から日はと、御救いの良い知らせを告げよ。
                                 詩篇96篇1~2節

聖書箇所
詩篇33篇1~9節
説教
ルターと賛美 田口勇新教師

2017年10月15日日曜日

2017年10月15日 ルター主教改革500年記念礼拝① マイ聖書が無かったら

招詞
私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。
                                     詩篇30篇2節

聖書箇所
第2テモテ3章14~17節

説教
マイ聖書が無かったら 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ/208
私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。 エペソ人への手紙1章3節
 エペソ人への手紙1章3節は、1節の中に一つの言葉が三つの品詞によって使われているめずらしい箇所です。名詞としては「祝福」を表すユーロギア、形容詞としては「祝福された、ほむべきかな」と訳されるユーロゲートス、動詞としては「祝福する」のユーロゲオーです。祝福をもって祝福するという日本語は難解なので、共同訳をみましょう。
 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。(新共同訳)
 「祝福する」というのは、神が人に対してなされる行為であり、人が神を祝福する場合には「賛美する」となります。1章3節の聖句を順にみていくと、最初にあるのが形容詞のユーロゲートスで、新約聖書では8回使われています。新改訳では、「ほむべき(方)」(マルコの福音書14章61節)のように訳されています。動詞のユーロゲオーは、「(神を)ほめたたえる」・「祝福する」・「聖別する」という意味ですが、エペソ1章3節では、神が私たちをキリストを通して「祝福にあずからせてくださった」としています。俗な言い方をするなら、「幸せにしてくださった」とも言えます。詞のユーロギアは、「祝福」だけでなく、「賛美」(黙示録5章12節,13節,7章12節)、「聖別」(Ⅰコリント10章16節)、「(神からの具体的な)恵み、恩恵、賜物、贈り物」をも意味します(Ⅱコリント9章5,6節)。祝福という言葉だけでも、神さまがわたしたちに惜しみなく愛を注いで育ててくださっている熱心を感じ取ることができますね。
                                           (銘形 エペソ書の重要語彙」より引用)

2017年10月8日日曜日

2017年10月08日 第2主日礼拝 和解のいけにえ 神の食物

招詞
まことに、【主】は、とこしえに王として御座に着いておられる。【主】は、ご自身の民に力をお与えになる。【主】は、平安をもって、ご自身の民を祝福される。
                                 詩篇29章10~11節

聖書箇所
レビ記 3章1~17節

説教
和解のいけにえ 神の食物 老松望KGK主事
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言(こと)ローグ/207 父なる神(セオス・パテール)
「いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝しなさい。                           エペソ人への手紙5章20節

「セオス・パテール」は、ヨハネの福音書から黙示録まで42回使われている重要語です。英語では、人間の父の場合は小文字のfatherを使い、父である神の場合には大文字のthe Fatherを使っています。福音書の御子イエスさまを見ると、イエスさまのすべての考え、思い、意志、感情は、御父に向けられています。御父の愛のまなざしが御子のすべてでした。それゆえ、御子の栄光は御父の栄光を完全に現わすことでした。

 この父なる神さまの愛のまなざしは、私たちでにも惜しみなく向けられています。そして、私たちは一人残らず、イエスさまの御名によって父なる神さまにいつでも、どこでも祈ることができます。ダビデが歌った詩篇23篇を見ましょう。
 【主】は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。
 これは、居心地の良い部屋でソファーに座って瞑想しながら祈ったのではなく、敵に命を狙われて絶体絶命の荒野での祈りでした。なんと、彼は、自分のこの状況を緑の牧場に横たわっている羊だと描写しました。それほど安心して父なる神に信頼しているダビデの信仰に習いましょう。いつでもすべてのことについて祈りましょう。                      
                      (銘形 「エペソ書の重要語彙集」から一部引用)


2017年10月1日日曜日

2017年10月01日 第1主日礼拝 見張っている神

招詞
「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
                                  エレミヤ書1章5節

聖書箇所
エレミヤ書1章11,12節

説教
見張っている神 松丸嘉也宣教師
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2017年9月24日日曜日

2017年09月24日 第4主日礼拝 よくやった!

招詞
【主】は私の力、私の盾。私の心は主に拠り頼み、私は助けられた。それゆえ私の心はこおどりして喜び、私は歌をもって、主に感謝しよう。                 詩篇28篇7節

聖書箇所
マタイの福音書25章14~30節

説教
よくやった! 菅 孝雄兄

言(こと)ローグ/206 恵み(カリス)
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
                               エペソ人への手紙1章2節

パウロが、「恵み」と「平安」と二つのことばをもって挨拶しています。「平安」はヘブル語シャーロームという神の祝福の総称を意味しますが、それを与える神の動機が「恵み」なのです。
 「・・・のことをしたので」与えられるものは、「恵み」とは言いません。「報酬」と言います。逆に、「・・・のことをせず、むしろ反対のことをしたにもかかわらず」与えられるのは、「報酬」ではなく、「恵み」と呼ばれます。つまり、人の行いによることなく、人の能力によることなく、人が何か良いことをしたという業績にも関係なく、「私がそうしたいのだ、そうしてあげたいのだ」という神ご自身の一方的な好意として与えられる祝福、これが「恵み」です。ですから、当然ではないのです。当たり前のことではないのです。本来、受けるに値しない者に与えようとする神の好意、これが神の心の動機です。しかも、神の恵みは神の愛のゆえに、無償で与えられるものです。だれにでも、別け隔てなく、すべての人に与えられます。
 「恵み」は、イエス・キリストを通して実現しました。罪人と蔑(さげす)まれていた、取税人のザアカイやマタイに友として迫ったのは、イエスの愛と恵みの業です。思い起こすと、私たちにもイエスさまが、「罪を悔い改めて、今日、神を信じるように」、と迫ってくださったことがありましたね。                   (銘形 「エペソ書の重要語彙」から引用)

2017年9月17日日曜日

2017年09月17日 第3主日礼拝 信じて帰途につく

招詞
主は、私の光、私の救い。だれを私は恐れよう。
              主は、私のいのちのとりで。だれを私はこわがろう。      
                                   詩篇27篇1節

聖書箇所
ヨハネの福音書4章46〜54節

説教
信じて帰途につく 高橋和義牧師
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言(こと)ローグ205/忠実な者(ピストス)
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。                          エペソ人への手紙1章1~2節

エペソへの手紙は、エペソ教会員全てにあてられた手紙ですから、「忠実な者たち」と複数形です。ここでは、キリストにある忠実な者は、「キリストのしもべ」と同義で使われています。2つの言葉を重ねることによって、「しもべ」を意味する「ドーロス」の特質は主人に対してどこまでも忠実であることが要求されますが、あなたがたはまさに主に忠実な信徒だと言われています。 
使徒パウロは、自己紹介するときには、決まって、自分のことを「キリスト・イエスのしもべであるパウロ」と表現しています。つまり、パウロは、常に、キリストの忠実なしもべとしての自己認識を持って生きていました。「キリスト・イエスの使徒パウロ」(エペソ1:1)という場合には、イエスの十字架と復活に立ち会っていなかったために、本来自分は使徒と呼ばれるには相応しくない者でありながら、神の恵みによって使徒とされたという認識がこめられていますが、「キリスト・イエスのしもべ」という場合には、その神の恵みに自分がふさわしく応えたい、ふさわしく歩みたいという意欲が込められた表現と言えます。私たちもまた、パウロと同じく十字架の場に立ち会っていませんし、復活のイエスさまを直接見た者でもありませんが、使徒たちの証言によって、イエスの十字架と復活を知っています。知っているだけでなく、罪赦された者として、復活の希望を持つ者として日々歩んでいます。それを喜びとしましょう。
                        (銘形 「エペソ書の重要語彙」より引用)

2017年9月10日日曜日

2017年09月10日 第2主日礼拝 神の家族

招詞
【主】よ。あなたの道を私に知らせ、あなたの小道を私に教えてください。
                あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。
                                詩篇25篇4~5a節

聖書箇所
エペソ人への手紙 2章19節

説教
神の家族  田口勇新牧師
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言(こと)ローグ204/ハギオス(聖徒)
神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、
     キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。   エペソ人への手紙1章1節

 バギオスは、新約聖書で233回、エペソ書だけでも15回使われています(1:1/1:4/1:13/1:15/1:18/2:19/2:21/3:5/3:8/3:18/4:12/4:30/5:3/5:27/6:18)。

 さて、聖徒たちとは誰のことでしょうか?エペソ教会のある特別な品行方正な人たちのことでしょうか?そうではなく、イエスさまを救い主メシア(キリスト)と信じてクリスチャンになったすべての教会員のことを聖徒たちと呼んでいます。彼らを持ち上げて言っているのではありません。

 大都市エペソでは、偶像崇拝と魔術が盛んでしたが、そこから救われた人たちは、偶像に帰ることはありませんでした。ローマ皇帝は、自分を主(キュリオス)と呼ばせ、神格化しました。これも偶像崇拝ですから、クリスチャンたちは抵抗しました。少数派でしたが、彼らは、神に選び分けられた人たちでした。ハギオスの聖さはサタンの支配から選び分けられた者という意味があり、聖徒たちは、暗闇の業(わざ)から光の生活に入った人たちでした。

 ハギオスは、聖霊(プニューマ・ハギオス)のお名前にも使われ、エペソ書では1:13, 4:30の2回です。

 毎週、いっしょに唱えている主の祈りのなかにもハギオスの動詞形が使われています。 「御名がをあがめられますように」という「あがめる」は、ハキアゾーで、聖い方と礼拝されるという意味です。ここでも、聖なる、特別な方として他と区別されて崇められますように、という意味合いがでています。

 私たちは、盛岡月が丘キリスト教会の聖徒です。ご聖霊にもイエスさまに対しても用いられているハギオスが、救われたとは言え、罪びとの私たちの呼称として聖書に233回も登場することを畏れながら感謝しましょう。それほどにイエスさまは、この世界で私たちが地の塩となり、光として輝き続けることを期待しておられるわけですね。