2015年8月16日日曜日

2015年8月16日 第3主日礼拝 水辺の木の様に

招詞
まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。
詩篇1篇2~3節

聖書箇所
ルカの福音書 6章43~45節

説教
水辺の木のように 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ21/木の実(フルーツ)
イエスさまは、木の実の例で、「良い木は良い実、しかるべき実をつける」と語ります。ルカ6:44では、イチジク、ブドウ、野ブドウの3つが取り上げられていますが、聞いている弟子たちや人々は、他にどんな木の実を想像したでしょうか?

パレスチナでは、代表的なものがザクロで、正月や慶事に使われます。生食の他、ザクロワインなどが生産販売もされます。
ナツメヤシ(デーツ)は、何千年も前からオアシスのヒーロ― でした。100~200本あれば、小さな部族を養うほどの商品価値もあったようで、乾燥したものが、シルクロードで西はヨーロッパ、東は中国まで運ばれ交易に役立ちました。
サボテンの実、ドラゴンフルーツなども栽培されてきました。
前世紀のイエラエル再建国以来、キブツという現代農業が始められ、大規模な灌漑により、野菜とともに、リンゴや柿などの果樹も大量生産され、柿などは、ヨーロッパはもちろん、シンガポールなどアジアの国々でも、「安くて 甘い」イスラエルの柿として人気があり、食べたことがあります。
オリーブも果肉を食べるので果実ですが、オリーブ油とともに色々な料理に欠かせない食材です。

黙示録の最終章には、12種類の 命の木の実(フルーツ)がクリスチャンを楽しませてくれると書かれています。フルーツ好きの皆さん、覚えておきましょう。
「都の大通りの中央を命の水の川が流れていた。川の両岸には、命の木があって、十二種の実を結び、絶えず豊かに実が成った。その木の葉は、クリスチャンに生きる喜びを増し加えた。」(黙示22:1b 現代訳)


2015年8月9日日曜日

2015年8月9日 第2主日礼拝 ジョン・オルソン師 子供が信仰をもつ幸い

招詞
子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。
まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。
ルカの福音書18章16~17節

聖書箇所
申命記 6章4~9節
詩篇127篇3~5節
ルカの福音書 18章15~17節

説教
子供が信仰をもつ幸い ジョン・オルソン牧師

言(こと)ローグ20/子ども(幼子)のように
ルカの福音書18:15で、イエスは、「子ども(幼子)のようになる」ということが「神の国に入る」上で大切だと言 います。

ここでいう「子ども」とは、第一義的には、子どもです。
二義的には、当時のイエスの弟子たち、および民衆(女性、取税人なども含みます)のことを指しています。

ちなみに、「子」に対する「大人」とは当時の宗教指導者のことを意味しています。
パリサイ人が神の前に義 とされず、イエスの弟子たちや民衆たちが義とされたことを意味しています。
なぜなら、神の国を受け入れるとは、イエスを受け入れることと同義だったからです。

その点、パリサイ人や律法学者たち、そして祭司長たちはイエスを受け入れなかったために、神の国に入ることはできな いことをイエスは語ったのでした。
(銘形:「ルカの福音書を味わう」より引用)

2015年8月2日日曜日

2015年8月2日 第1主日礼拝 赦し与える幸い

招詞
主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。
主の小道はみな恵みと、まことである。その契約とそのさとしを守る者には。
詩篇25篇9~10節

聖書箇所
ルカの福音書 6章37~42節

説教
赦し与える幸い 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ19/十分な訓練を受けた者 カタルティメノス
本日の聖書箇所、ルカの福音書40節の「十分な訓練を受けた者」は、カタルティメノスの訳です。これは、動詞カタルティゾーの名詞型で、動詞の意味は、直す、(網を)繕う、修繕する、整える、整備する、完全にする、欠点のないものとする、(本来の良い)姿にする」です。と言った意味の完了形の受動態の分詞(名詞的用 法)を、新改訳では「十分な訓練を受けた者」と訳しているのです。

福音書では、魚師が破れた網を「繕う」というところで使われています。網が破れていては漁はできません。ですから「繕う」ことが必要なのです。 イエスの弟子たちも主によって繰り返し、「繕われる」=取り扱われる必要があった のです。 弟子たちは、3年ほどの訓練で、イエス様に取り扱われ、何とかエルサレムの大教会の奉仕に間に合う者、役立つ者とされました。

私たちは、 どうでしょうか?

小さく固まった信仰に満足したり、逆に、大きな破れ穴を修繕しないで(してもらわないで)放りっぱなしということはないでしょう か?

2015年7月26日日曜日

2015年7月26日 第4主日礼拝 あなたの敵を愛しなさい

招詞
しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。
マタイの福音書5章44~45節

聖書箇所
ルカの福音書 6章27~36節
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説教
あなたの敵を愛しなさい 田口勇新牧師

言(こと)ローグ18/「愛する」アガパオー
信仰は、神の恵みのみわざです。神から一方的に与えられるものです。
これに対し て、愛は、御霊の実です。
イエスを信じた者が、良い業ができるように変えられていき、結果として、御霊の実を結んでいきます。

そして、パウロ は、9つの実の第一番目が愛だと書いています(ガラテヤ6:21)。
ルカの福音書6章20節の「敵を愛しなさい」の「愛する」は、アガパオー で、無条件の愛です。
無条件だから利害関係ではマイナス要因となる敵をも愛するのです。

エルサレム神殿を汚した悪役として、シリアのエピファ ネス王は、エルサレム神殿にゼウスの偶像を置き、反対した多くのユダヤ人を虐殺しました(紀元前167年)。
イエスの時代の最大の敵は、エピ ファネスの後、やはり神殿を汚したローマでした。12使徒の一人熱心党のシモンは、ローマを憎み、マタイのようなローマに組する税金取りも憎 みました。
しかし、イエスは、あなたの敵であるローマ人も愛しなさいと言われたのです。

イエスは、実際、ローマの百人隊長のしもべを癒すエピソードで、隊長の信仰を褒め、好意を示しました(ルカ7章)。
極めつけは、十字架の上から、ご自身を死刑にした敵のローマ人、ユダヤ人たちの ために祈ります。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(23:34)
このように、イエスは、心で愛するだけでなく、行為で敵を愛することを教えています。

殉教者ステパノは、自分に石を投げつける敵のためにイエスと同じように祈った人です(使徒7:60)。
神の愛に押し出された者が、神の愛を反映してできる奇跡の行動でした。


2015年7月19日日曜日

2015年7月19日 第3主日礼拝 幸いな人と哀れな人

招詞
ハレルヤ。私のたましいよ。主をほめたたえよ。私は生きているかぎり、主をほめたたえよう。いのちのあるかぎり、私の神に、ほめ歌を歌おう。
詩篇136篇1~2節

聖書箇所
ルカの福音書 6章20~26節

説教
幸いな人と哀れな人 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ17/幸いと哀れ
「幸い」はマカリオスです。神に祝福されているものという意味です。「哀れ」と訳されているウーアイは、名詞ではなく感嘆詞で、「ああ哀れな」というイエスの嘆きのため息で、新約聖書中46回も使われています。
「ああ、忌まわしいことだ、悲惨だ、呪われる、気の毒だ」という意味合いです。主を信じないで心を閉ざす者たちへのため息です。財を蓄える、食べる、笑う、褒められることは、この世界では良いことで、そのために学校へ行くのだという人が多いでしょう。しかし、その前に、「ゆるし」と「いのち」をイエス様からいただいているかが問題です。この世を去る時に、死の向こうに持っていけるものは、「ゆるし」と「いのち」だけです。ルカ6章20節以下の平地の説教では、マカリオスの中身は、貧しいもの、飢えている者、イエスの名のために迫害されている者たちです。すべて、イエス様を信じた時にどんでん返しになって、幸いになるのです。この幸いは、天国に持っていけるものです。イエスに「あーあ」と失望のため息をつかれないようにしましょう。


2015年7月12日日曜日

2015年7月12日 第2主日礼拝 イエスが選んだ12人 

招詞
そこでイエスは十二弟子を任命された。それは、彼らを身近に置き、また彼らを遣わして福音を宣べさせ、 悪霊を追 い出す権威を持たせるためであった。
マルコの福音書3章14~15節

聖書箇所
ルカの福音書 6章12~19節

説教
イエスが選んだ12人 田口勇新牧師
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言(こと)ローグ16/使徒(アポストロス)
イエスさまの世界宣教のミニストリーは、教会と「使徒」と呼ばれる12人の弟子たちに委ねられていきます。

ルカの福音書6章ではじめて登場するこの「使徒」ということばは、他の福音書では弟子(マセーテース)と言われています。その場合は、文脈から弟子の中の弟子(高弟子)の意味合いがあります。

イエスさまは、彼らに神の国の福音を宣べ伝える中で、病気を治したり、悪霊を追い出す権威を授けます。そして、教会の誕生日と言われるペンテコステ以来、ペテロやヤコブなど教会のリーダーとして、牧会と宣教(聖書教育と伝道)の働きが主流になります。
パウロだけが、イエスさまの十字架と復活のあとて、ダマスコへの途上で任命されますが、エルサレム教会の権威に従います。使徒たちは、ヨハネ以外すべて殉教していきます。

イエスさまの選ばれた使徒は1代限りで、あとは教会が監督(牧師)や宣教師を任命して世界宣教が進展していきます。従って、カトリック教会が主張する ような、使徒権威が後々まで継承されることはありません。

500年前に、マルチン・ルターが宗教改革の中で発表したローマ教会への論文のなかでも、聖書に従うかぎり、神と人との仲介者は必要がなく、ローマ教皇という立場はありえないし、使徒たちやマリヤ像などにあやかる聖人(像や肖像 画)崇拝は無意味である、と堂々と語ります。

2015年7月5日日曜日

2015年7月5日 伝道音楽礼拝 一寸先は光 中野雄一郎牧師

生きる力を求めて! ~ハワイからユーモアと感動を

聖書箇所
ヨハネの手紙 第一 4章16節
ヨハネの福音書 3章16節

講演
一寸先は光 中野雄一郎牧師


2015年6月28日日曜日

2015年6月28日 第4主日礼拝 安息日の主、キリスト

招詞
まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。
ヨハネの福音書5章24節

聖書箇所
ルカの福音書 6章1~11節

説教
安息日の主、キリスト 田口勇新牧師

言(こと)ローグ15/人の子
イエスはしばしば自分のことを「人の子」という言い方をしています。イエスがご自身がメシア的存在であることを示すために使われた表現です。ですからこの表現は福音書独自の表現ということができます。
ルカの福音書では、すでに5章24節に登場します。
「人の子が地上で罪を赦す権威をもっていることを、あなた方に悟らせるために・・」とあるように、「人の子」という表現は、あきらかに神的権威をもつ存在であることを示しています。
神的権威をもっている「人の子」という呼び方でご自身をさして言われたために、当時の宗教指導者たちから拒絶され、苦しみを受ける存在でした。このことをイエスは事あるごとに語っています。